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Ephëmeris
Viggo Mortensen: Photographs 1978 - 2003

ヴィゴ・モーテンセンというと、人々は一般的にハリウッドを連想します。超大作『ロード・オブ・ザ・リング』のヒーロー、アラゴルン役で有名になった今では、尚のことです。デンマークでは、ヴィジュアル・アーティストとしてのヴィゴ・モーテンセンはまだ知られていません。フォトアート美術館は、大規模な彼の回顧写真展を通じて、彼を知る機会を提供したいと思います。

By Lonnie Hansen

アーティストであるモーテンセンは、控え目で気取ったところがない。彼はごく身近にあるものを表現する。写真の題材は、見覚えのある風景や、人々の関係が中心だ。彼の写真では、被写体は深い思いやりを持って扱われ、その官能性や詩的で幻想的な性質を引き出している。加えて、彼の写真は自伝的な要素を持っている。彼自身の世界、そして、一見取るに足らないように見える出来事を観察し記録することの喜びが、頻繁に表現されている。モーテンセンは世の中の観察者であり、親密な関係に重要性と意味を与えている。

絵、写真、テキスト

モーテンセンは、ただの写真家ではない。彼は画家であり、詩人でもあるのだ。写真は、数多くの表現手段の中の一つにすぎない。彼は、しばしば異なる表現方法を同時に使う。それは、Recent Forgeries (1998), Signlanguage (2002), Coincidence of Memory (2002) といった彼の写真集を見れば明白だ。これらの本は、写真・絵・詩・メモ書きを交互に提示し、相互の対話を生み出している。写真には文章が添えられ、被写体に新しい物語を付け加える。同様に、絵には頻繁にテキストと写真が使われる。モーテンセンはそのようなオーバーラップを通じて、イメージとテキストをまたがる関わり・物語・夢に開かれた、彼独自の世界を作り出す。彼は世の中を観察し、そこで観察したことを表現するのだ。

アート批評家のクリスティーン・マッケーナは、彼の自宅で実際に会った時のことをこのように表現している。“彼の家は、完成品か制作途中かを問わず、彼の作品ですべて占領されているのだ。ダンボールに入っているものもあれば、そのまま積まれているものもある。壁にはさらに沢山のアートがサロン・スタイルで掛けられている。写真、絵、コラージュ、アセンブリッジ、彫刻、スケッチに混ざってあるのは、詩や短い物語が書かれたノートや、アーティストが街で見つけたガラクタだ。この家は尽きることのない肥料を提供する巨大な堆肥の山のようだ。モーテンセンの暮らしぶりを見れば、彼がどうやってそんなに沢山のアートを生み出すかを理解できるようになる。まるで絵の具箱の中に住んでいるようなのだ。”

それでもやはり、カメラは彼の中で特別な存在であると言えるのだろうか?絵と写真とテキストをリンクさせる彼の手法が、そのことをほのめかしているように思える。彼の絵は、しばしばテキストと写真の両方を含んでいる。『Another Spring, 2000』(Coicidence of Memory p.23)を例にとろう。この絵は、抽象的なライトブルーのフィールドから、写真が “そっとのぞいている”。全体として、この絵のテーマは抽象的であり、曖昧な発言をしようとはしていない。しかし、じっくり観察すると、この絵は本当は、ペイントされ、元々のテーマの断片が描かれた写真であることが分かる。

これが彼の絵の一般的な特徴だ。ベーシックで、おそらく、赤、青、あるいは、ゴールドでペイントをした土台を使うが、それらは抽象的で象徴的だ。そのフィールドに、写真の断片やディテールが表れる。このように、彼は現実の要素をとらえるために写真を使い、観察したことを反映するために絵を使っている。

世界を観察すること

観察することは、もちろん、見ることである。観察する時、人はパターンを認識し、その関連性に気付く。モーテンセンは中でも、彼自身と被写体の間の、そして、彼を取り巻く世界に起こる現象の間の、親密さと関係を記録する。彼は、写真は親密さを体験する機会であると指摘する一方で、彼自身の世の中の理解やそこでの体験も示している。したがって、彼の写真は、意味のある体験を映し出すものとなってくるのである。そして、それは同様に、彼がどのように世の中を受け取るかというイメージでもある。セルフポートレイト(自画像)のようでもあるとも言えるかもしれない。

モーテンセンは親密さを観察し、様々な方法で表現する。写真はすべて、彼の回りのごく身近なものが中心となっている。庭、家、子供たち、ペットといった見慣れたものだ。見慣れてはいるが、日々の生活の中で必ずしも注意を払わない現象でもある。近くにある家具のラインを反映した花の色だったり、庭で遊んでいる子供たちだったり。その意味で、それはまた、彼が私たちに提示している匿名の世界ともなっている。私たちは、いつもとは違った視線でそれを認識しようとするがゆえに、匿名となるのだ。モーテンセンの中では、見慣れたものが、私たちが普段見過ごしている存在へと導いているのだ。

同じ理由で、すべての写真は、親密さと距離の二重性を含んでいる。彼のカメラは、身近にあるものの親密さや結びつきを確立するが、題材の匿名性がゆえに、写真には常に距離感がともなう。世の中は束の間であるがゆえに、消滅し忘れられがちである。だが、世界はここにある。目の前に存在しているのだ。しかし、私たちの視線は、当たり前のように次々に移り変わり、十分に注意して見ることがない。モーテンセンのような観察者が注意を払うことによって初めて、それは隠れた存在でなくなる。彼の視線を通じて、この世界は再発見され、再観察されるのだ。

その結果、モーテンセンの写真では、場所と人物は匿名になり、テーマは束の間のものとなりうるのだ。彼が被写体に対して親密な関わりを持っていることは、いつでも即座に分かる。彼が写真に撮る人々は、肩を寄せ合って立ち、線やパターンやテクスチャーはお互いを反映している。腕や腹や顔は、かすんだ色や光り輝く色の中から現れるかもしれないし、人は直接レンズを見つめているかもしれない。『Chris' Dogs, 2001』(Signlanguage p.25)では、3つの影が、華やかでかすんだゴールドの色調から現れ、次第に走っている犬だと識別できるようになる。基本的にテーマは抽象的であり、モーテンセンの絵とある意味似ているところがある。再度言うが、認識できるものとしての親密な関係を引き出しているのは、他ならぬ不明瞭で霞がかったような表現の匿名性なのである。

しかし、モーテンセンは、見過ごされている世界の親密さに常にフォーカスしているわけではない。写真を撮るという行為自体も、彼自身が親密さを体験する機会を提供しているのは明白だ。私たちが遭遇するのは、彼自身の世界なのだ。彼の家族であり、彼の友人であり、彼が出会った人々である。その状況は常に個人的だ。彼が散歩した道かもしれないし、彼の庭やプールかもしれない。あるいは、アムステルダム、ニュージーランド、アルゼンチン、デンマークといった、(おそらく映画の撮影に)彼が旅した場所かもしれない。モーテンセンは、しばしば写真に自分自身を含める。あるいは、写真の中の誰かが彼を撮影している。その結果、その人とモーテンセンが親しいことが確立されるのである。他の場所では、彼は作業をしているヴィジュアル・アーティストとして、あるいは撮影中の俳優として、写真にもたれかかる影として現れる。

これらのセルフポートレイトで、彼は、存在を記録するという写真の能力を示している。彼は、世界に存在する自分自身を、そして、その世界で観察したことを記録する。彼が周囲の世界とどう関わっているかがテーマなのだ。モーテンセンは、見る者を遠くまで連れて行くかもしれない。しかし、それがモーテンセンの出会いであっても、人々や動物、モノの間の出会いであっても、常に “他人との出会い” が中心軸となっている。

偶然と美しさ

モーテンセンのヴィジュアル世界を表す言葉として、“偶然” と “美しさ” が即座に思いつく。彼の写真の多くは、スナップショットが持つ、奔放で偶然という特性を保有している。同様に、家族関係や、日々の生活や出来事といった、フォトアルバム的要素も持ち合わせている。犬がケンカしていたり、子供たちが遊んでいたり、あるいは、腕の刺青と服のパターンが偶然似ていたりなど、モーテンセンは偶然起こったことを見せてくれる。彼は、息子の誕生日に息子の写真を撮り、映画のセットで同僚の俳優の写真を撮るのだ。

とは言え、モーテンセンの写真は、本当のスナップショットやファミリーアルバムではない。彼の写真には、ある意図がある。彼は、世界と同調するため、日常の枠を超えるために写真を撮る。“世界と同調する” というフレーズは、彼を取り巻く世界の中のあるパターンをとらえ、注意を払う、ということを指している。言い換えれば、偶然起こることや慣れ親しんだことの中に、美しさと意義を見出そうとして、美的にものを見るのだ。日常の体験の中では、何もかもがありきたりになってしまう。私たちは、世の中や身の回りのことを心に留めるのをやめ、ちょっとしたニュアンスや物事のディテールに目を向けなくなってしまう。しかし、美的にものを見ることで、このルーチンから脱却することができるのだ。それは、見過ごしている世界に身を投じた時のリズムを崩し、そして、もう一度日常を認識できるようにしてくれる。美的にものを見ることは、自分を取り巻く環境を認識する力を高める。見慣れた感じはなくなり、その美しさを再発見するのである。美的にものを見ることは、敏感で感性豊かな観察眼を与えてくれる。

モーテンセンはこのようにものを見る。写真を撮る時、彼はそのユニークな観察を通じて、現実に遭遇する。ケヴィン・パワーは、エッセイ『A Life Tracking Itself』の中で、モーテンセンの写真を “小さな驚きと予期しないものの連続” と定義した。彼の写真は、ありふれたもの中にある驚異を浮き彫りにする。イベントが撮られているのではない。イベントは特別な意味を持っている。それ自体が重要であり、意義があるものなのだ。むしろ、モーテンセンは、出来事を題材とする。気付かれずに起こった出来事や、それほど重要性を負っていない出来事だ。それは、私たちが気付かないうちに起こり、消え去っていく。モーテンセンの視線は、そのような出来事に意味を持たせる。彼には、それらの出来事が持つ美しさや詩が分かるのである。カメラを通じて、彼はゆっくりとその物語を解き放つ。カメラを通じて、彼は注目されないものに意味を与える。彼はまるで、気付かれ、感謝されることを切望している出来事に満ちた世界がある、と言っているようである。

彼はまた、世界は非常に美しいとも言っている。世界は、独特の感覚的な体験を提供しているのだと。彼は、題材を年代順ではなく、雰囲気と関わりを重視した、題材の集合として提示する。過去と現在は、『Amsterdam, 2001』や『Laura, 1995』のように、日付で記される。しかし、最も重視されているのは、人々と周囲の環境との関係である。とりわけ彼は、被写体から、親密さや感覚に訴えるものを引き出そうとして光を使う。白黒の写真では、その対象が感覚に訴えかけてくるものと光が戯れ、モノとしての性質に近いものを引き出している。カラーの写真でも、光は同等に不可欠である。色の遊びはふんだんに見られる。フォーカスは、しばしばいくつかのシンプルな色に置かれ、青、赤、黄色の色調は、イメージを覆うと同時に、対象をぼかしている。この光との戯れは、超現実ともいえる幻想的な性質を写真に与える。彼の遊び心はまた、茶目っ気のあるユーモアで強調されている。

熟慮

モーテンセンの詩的な表現を通じて、写真は世界についての深い考えを反映したものとなってくる。彼は写真で、“他の人々との関係に注意を払いなさい、世界を感じなさい、気付かないことに気付きなさい、それが重要なのだ、真実があるのだ” とでも言っているようだ。彼は写真で、束の間のこと、断片的なことを表す。それを維持しようとはしないが、彼はその重要性に注目をもたらす。それは、静かに、彼自身でいる機会を提供する。毎日の中で見過ごされている、親密さと存在を感じることができるように。彼は、私たちが何か一つの対象に注目するよう仕向けるのではなく、絵全体を流れるように見させている。彼は、私たちが連想し、夢見ることを奨励する。空想することを奨励するのだ。写真は親密さを示すが、その神秘をすべてさらけだしているわけではない。世界はその秘密を私たちの目には明かさないが、静かにそこにいる機会をさしだしている。

Biography

ヴィゴ・モーテンセンは、1958年にニューヨークに生まれるが、各地を点々とする父の仕事の都合で、様々な場所で暮らすことになる。ヴェネズエラやアルゼンチンでは、数年を過ごした。元々はデンマークの農場経営者だったヴィゴの父は、そこでアメリカ人の妻と農場を営んだ。ヴィゴはこの時期にスペイン語を流暢に話すことを学び、さらに、幼少にして乗馬も習得した。多くの映画で見られる乗馬シーンは、ほとんどのスタントを彼自身がこなしている。また、子供の頃、彼は多くのホリデーをデンマークの家族と過ごした。

アメリカのセント・ローレンス大学では、政治学とスペイン語文学を専攻した。そして、卒業後、彼はデンマークに引越し、2、3年間デンマークの家族と暮らした。多くの若い人と同様に、彼は様々な仕事に就いた。コペンハーゲンの路上で花を売ったり、エスビヤオやカルンボアの港、デンマークの造船所 B&W で働いたりした。また、リングステッドの工場で働いたり、コペンハーゲンの Jan Hurtigkarl's レストランでウェイターをしたこともあった。

1980年代初頭にアメリカに戻った彼は、ニューヨークのウォーレン・ロバートソン演劇ワークショップで演技の勉強を始める。後にロサンゼルスに移り、1987年にコースト・プレイハウスで上演された『ベント』の役で、ドラマローグ批評家賞を受賞する。ロサンゼルスに来てからは、南カリフォルニアの詩の世界でも活躍するようになり、朗読会のようなイベントにもしばしば参加するようになった。これらのパフォーマンスやレコーディングのいくつかは、仲間の詩人やミュージシャンである、バケットヘッド、エクシーン・セルヴェンカ、ドニータ・スパークス、D.J.ボーンブレイク、他数人との共同制作となっている。

ヴィゴは、スペイン語の映画も含めて、30本以上の映画に出演している。同僚の間では、彼は優れた性格俳優として知られている。しかし、彼が最終的に全世界でブレイクしたのは、『ロード・オブ・ザ・リング』のアラゴルン役のおかげであった。とはいえ、演技は彼の沢山ある特技の中の一つにすぎない。彼は幼少の頃から、熱心に、そして、継続して、絵と言葉を手掛けてきた。以前は、これは非常に親しい友人たちだけのものであった。写真・詩・絵は、彼に達成感を与える。そしてもっと重要なことに、監督に最終決定権がある映画で演技するのとは対照的に、これらの分野では、芸術家としての成功を彼自身の手で築くことができるのだ。

これまでに、彼の詩は、何冊もの本で出版されている。詩集 Ten Last Night (Illuminati Press, 1993) や、Recent Forgeries (Smart Art Press, 1998) だ。後者は、詩だけでなく写真や絵、それにCDを含み、カリフォルニアのサンタモニカにある Track 16 ギャラリーでの、初のメジャーな単独の個展に付随した。その後の個展は、1999年カリフォルニア州ベニスのビヨンド・バロックでの『One Man's Meat: New Paintings』、2000年ニューヨークのロバート・マン ギャラリーでの『Errant Vine』、2002年 Track 16 ギャラリーと2003年セント・ローレンス大学のリチャード・F・ブラッシュ アートギャラリーでの『Signlanguage』、それに、2003年ハバナの Fototeca de Cuba での『un hueco en el sol』である。Signlanguage 作品展のカタログは、主に、1999年から2001年の1年半に渡るニュージーランドでの滞在中に作られた写真と絵から構成されている。この本は、スペインのアリカンテ大学でアメリカ文学を教えているケヴィン・パワーによる、『A Life Tracking Itself』という包括的なエッセイを含んでいる。また、2002年には、Hole in the Sun と Coincidence of Memory を Perceval Press から出版した。

2002年に、ヴィゴはアート・詩・文学専門の小さな独立系の出版社 Perceval Press を立ち上げた。デンマークでは、上記のアメリカの出版物から翻訳された詩を含む Nye Falsknerier を、2003年に Lindhardt og Ringhof が出版した。

translated by yoyo