MIYELO
Mitakuye Oyasin  〜 我々はみなつながっている 〜

私の名前はクレメント・“ソニー”・リチャーズ。

私はラコタ族の混血 — 通訳であり、もしくは “祈祷師” である。映画 『Hidalgo』では、1890年にパインリッジ居留地で起こった、ウーンデッド・ニーの大虐殺を映画化するという、極めて重要なシーンが要求されるのだが、私は、その文化面での指導と技術的なアドバイスをするよう頼まれた。私の責任には、カメラの前で再現されることになった、運命的な悲劇の信憑性と威厳を維持できる、適切な踊り手と歌い手を用意することが含まれていた。

このシーンのために、酋長ビッグ・フットのキャンプのセットに初めて足を踏み入れた時、息をのむほどのすごさを感じた。そして、同時に、不気味でもあった。細部の細部に至るまで、完璧に再現されていたのである。エキストラは全員、翌週行われることに対して、同じように悲しみと敬意の念を感じ、表明していた。現実に起こったことを再現するにつれ、多くの人は、誇りに思うが悲しくもあると言った。そして、彼らの親族が苦しんだに違いないことについて、何か理解を得られたと。

撮影2日目、何人かのエキストラが、野営地の至るところで “泣き声” を聞いたと報告してきた。そのため、私は、遠い昔にいとも無惨に殺された者たちに、祈りを捧げ、認識していることを伝えるように言われた。撮影初日に泣き声が聞かれた迷える魂に祈りを捧げるためだけでなく、この歴史的イベントの再現に関わるすべての人々の安全を守り、彼らの敬意を表すためには、撮影の前と後にスウェット・ロッジの儀式を行うことが、犠牲者の記憶に敬意を払う一番良い方法だと感じた。

映画 『Hidalgo』は、大まかにしか史実に基づいていないが、1890年12月のあの寒い日に、ウーンデッド・ニーで起こった無分別な殺戮は、カケラもフィクションではない。過去500年にわたり行われた他のインディアンの虐殺と同じく、あの場所で起こったことは、この国の歴史上の汚点である。すべての人が過去から学び、癒しを始めることができるという望みを持って、これらの悲劇を果敢に示し、世界に知ってもらう必要があるのだ。

現代のゴースト・ダンスは、19世紀の終わりにラコタ族や他の西部の部族を短期間インスパイアした、定期的に行われるスピリチュアルな儀式というよりは、むしろ珍しい象徴的な儀式として存在する。ヨーロッパの侵略者たちのせいで北アメリカの先住民が苦しんでいた不正を正したい、締結後にカナダと合衆国の両政府によって破られた条約協定を守らせたい、そして、大打撃を与えるような法制定の長い歴史に対抗したい(一番最近では、土地の分配に関する1887年のドーズ法が良い例である。この法律は先住民に関係するが、必須とされている彼らとの協議や承認がないまま通過した。)という心からの要望から、ゴースト・ダンスは元々のアピールの多くを引き出した。 今日、インディアンであろうがなかろうが、多くの人にとって、ゴースト・ダンスはエキゾチックで、しばしば誤解された記憶を象徴している。もし、ネイティヴ・アメリカンの若者に、ゴースト・ダンスは誰が始めたもので、何が目的だったかを聞いてみたなら、残念ながら、多くの者は答えられないであろう。1970年代初頭から、異なる部族の様々な祈祷師が主導したゴースト・ダンスのリバイバルが何度かあった。しかしながら、この30年間、ゴースト・ダンスを生き続けさせ、儀式として意味のあるものにし続けようという不断の努力はなされなかった。現代では、偉大なバッファローの群れが戻ってくるよう祈ったり、伝統的に生活し、もっぱら古いやり方にだけ従ったり、ヨーロッパ系アメリカ人がヨーロッパに戻り、我々だけで平和に暮らしたいと思うのは現実的ではない。

過去50年の間にこの国で真のリーダーシップを示し、そして象徴的なことに、ゴースト・ダンスの最も崇高な動機付けを表した個人が何人かいる。例えば、マーティン・ルーサー・キング Jr は、すべての人々の平等と人権を促進した人であり、マイノリティが直面する経済的、社会的な障害に特別な注意を払った。彼をはじめ、彼のような人々は、人々の権利と真に公正な社会を実現するという夢に立ち向かう意欲のために、多大な犠牲を払ってきた。同じことがネイティブ・アメリカンのコミュニティについても言えるにちがいない。祈り、断食、献身を通じて全ての部族を結びつけるゴースト・ダンスを組織できる人は、カリスマ性があって、精神的に鍛錬され、数多くのネイティヴ・アメリカンの言語、それに英語にも流暢でなければいけないだろう。それだけではなく、最も重要なことには、過去の勇敢なリーダーたちがそうしたように、その人物は、平和と正義という大義のために、生命の危険を冒す覚悟があるものでなくてはいけないであろう。それが重大な変化を起こす唯一の方法である。

Mitakuye Oyasin は、英語で "All My Relations" とか "We Are All Related" という意味になるそうです。日本語では 「私につながるすべてのものたち」「我らみな同胞」などと訳されていました。

translated by yoyo