MIYELO
“白人は悪い夢にすぎない...”

マイク・デイヴィス

つむじ風!つむじ風!
つむじ風!つむじ風!
— ゴースト・ダンスの詠唱より

探索者

1892年1月1日、ネバダ州メイソン・バレー
身を切るような寒さの、月のない晩だ。先頃起こった猛吹雪のせいで、ヤマヨモギの大草原は膝丈まで雪で覆われている。緊張し、寒さで凍えそうな数人の男たちは、列をなして馬に乗り、その後には幌馬車が続く。彼らのたった一つのランタンは、前方の地面に薄暗い黄色の光を浴びせている。手掛かりとなるかすかな印は、雪に埋まる放牧道の縦横無尽な迷路の中に、次第に消えていく。彼らはどの方角に進むべきなのか分からないのだ。人も馬も疲れきって、方向感覚を失っている。風は不吉にうなりだし、各々かすかにこみ上げてくるパニックと戦っている。

道に迷うには最悪の夜だ。こんな状況では、カウボーイは家に閉じこもり、羊飼いは群れを見捨て、捜索隊は追跡をあきらめ、無法者は寂しい道端で凍え死ぬ。しかし、3人のパイユート族と2人の白人から成るこのグループは、いつになく緊急を要す任務を負っている。彼らは、ウォヴォカという名前の救世主を探しているのだ。“いくつもの誤った痕跡を無駄に追い、応答する声が聞こえるのではと期待して何度も叫んでみた後”、彼らは捨て身の、急場しのぎの策を試みる。霜で覆われた幌馬車を基準点として使い、各々別の方向に少しだけ馬を走らせるのだ。痕跡を発見できない時は、幌馬車を動かし、再び同じことをする。やがて、幌馬車の運転手が物音を聞いた。何百ヤードか先に、ツレ(訳注:フトイという植物)で覆われた小さな4つのウィキャップ(小屋)を見つけた。そのうちの1つで、救世主は火のそばで静かに待っていた。

このグループのリーダーは、独学の言語学者/人類学者の、ジェイムズ・ムーニーだ。彼は、合衆国地質調査所からスミソニアン研究所に異動したばかりの、民族学局で働いている。彼の上司は、片腕の南北戦争のヒーロー、グランドキャニオンの探検家、伝説の人物ジョン・ウェスリー・パウエルである。局が土壇場で命じた陰鬱な任務は、ネイティヴ・アメリカの消滅を科学的に立証することである。国の最も著名な学者たちは、ほとんどのインディアン文化の生き残りを見限ったのだ。ムーニーと同僚たちは、この消える運命にある生活様式を、白人の入植と産業の発展によって破壊される前に、できる限り記録しようとしているのだ。

ムーニーは、この仕事にぴったりの物悲しい気質をしている。オハイオ出身のアイルランド民族主義者である彼は、アメリカン・インディアンの衰退とケルト人の悲劇に、意味深い類似点を見出した。カイオワ族やチェロキー族のように(彼は両方の民族の言葉を流暢に話す)、ムーニー自身の民族であるゲール語を話すアイルランド人は、鉄の街と先物取引とホチキス銃(訳注:マシンガンのようなもの)の時代にあって、時代遅れの民族である。

スタンディング・ベア、ファイアー・サンダー、アメリカン・ホース、ジョージ・スウォード、ブラック・コヨーテ、シティング・ブルといった勇ましい名前のインディアンの情報提供者や友人たちは、ムーニーの中に、彼が白人であるということよりも深い感性を持っていることをかぎつける。おそらくムーニーは、彼らに、彼ら自身の言葉で、アイルランドの愛国者ジョン・ミッチェルの悲痛な墓碑銘を引用したのであろう。「私がアイルランドとして知っていた、まさしくその国が、壊れ、破壊される。そして、知られていた場所は、もはや知られることはないだろう。」 いずれにしても、ムーニーの気持ちは説得力のあるもので、虐殺や反故にされた約束のせいで、さもなくば白人には永遠に閉ざされた世界に入ることを許可されている。名高い友人たちの名誉によって特別の計らいを受け、彼は部族から部族へ、奇妙な新しい宗教についての情報を探し求める。

その何週間か前、ムーニーは、サウスダコタでラコタ族と一緒にいた。不運な人々は、誰しも魔法の力による再生を夢見るものである。ほんの10年前には、この大陸で最も力のある馬乗りであったラコタ族は、保留地の窮状にあって、“ゴースト・ダンス” として知られる再生の儀式を取り入れた。この復興した世界の予言は、希望というスピードで、メイソン・バレーのウィキャップから、アメリカ先住民の隅々にまで広がった。強力な送風機のように、死にかけていたインディアンのスピリチュアルな自信と抵抗の炎を目覚めさせたのだ。

後にムーニーは、インディアンの千年王国説の意味を、アイルランドのコンテキストで見るようになる。ゴースト・ダンスのアイリッシュ版は、劣らず素晴らしく、かつ理想主義的である。忘れられた文化を土台にアイルランドの国を再建しようと模索した、フェニアン団、ダヴィット、パーネルの一連の敗北に続いて起こった、1890年代のケルト文化復活運動だ。ここでの予言者や祈祷師は、イェイツ、シング、ハイド、ピアスである。(概念的な遍歴を知りたい人のためにいうと、メティス及び理想主義の社会主義者ルイ・リエルの驚くべき平原地帯の反乱で、本当にラコタ族とアイルランド人の間に初期の接点があったのだ。リエルは、英領カナダに対する苦闘の中で、シティング・ブルとアイルランド共和主義同盟を同盟者とみなした。)

アイルランドの目覚めは、最終的には離れた島に小さな共和国を成立させた。しかし、ラコタ族のほうは、夢を見たことに対して即座に恐ろしい代償を払うことになった。44人の女性と18人の子供を含む146人のパインリッジの人々は、ウーンデッド・ニー・クリークの凍った土手の上で、陸軍の新しいホチキス銃の強力な連発弾によって吹き飛ばされたのだ。(グロテスクにも、生存者の中には、その後バッファーロー・ビルのワイルド・ウエスト・ショーで、ヨーロッパ中で見世物になった者もいた。) ムーニーは、シカゴでの世界コロンビア博覧会向けの民族学の所用の合間に、合衆国政府が当時まだ “反乱” と不当にみなしていたこの虐殺について、初の包括的な報告を集めている。

後にムーニーは、1896年に発行された『ゴースト・ダンス−アメリカ・インディアンの宗教運動と叛乱』の序文で、22ヶ月(1890-92)の間に、驚異的にも32,000マイルも旅し、20の部族と時間を過ごしたと記している。愛と非暴力を説くこの新しい宗教について、苦労して書かれた彼の詳細な報告は、大草原に積み重なって横たわる、殺害されたラコタ族の女性や子供たちの写真と対照をなして、彼の雇い主である連邦政府を不正行為と殺人の罪で道徳的に弾劾している。同時に、それは彼の官界からの追放を確実にした。

ウーンデッド・ニーは1890年12月29日に起こった。それからほぼきっかり1年後に、ムーニーはヤマヨモギの炎のそばで、ウォヴォカとともに座っている。

救世主

“斧を持つ男” という意味の名前のウォヴォカは、35歳である。皮肉にも、彼の父の名前はテヴィボ、つまり “白い人” という意味である。(訳注:白人種ということではない) 彼は4歳の時に、名高いピラミッド・レイクでの戦いを目撃した。白人の銀鉱労働者たちは、数人のパイユート族女性を誘拐した。夫たちが妻を救助した時、鉱夫には1人たりとも危害を加えなかったにも関わらず、その行為は “インディアンの暴挙” とみなされた。大がかりな白人の民兵隊がインディアン・キャンプを破壊するよう送り込まれたが、彼らは狭い小道でパイユート族の奇襲攻撃を受けた。ウォヴォカの隊は弓矢だけで50人近くの鉱夫を殺し、残りはおびえて逃げ去った。

戦場では負けることがなかったパイユート族であるが、白人の採鉱と放牧境界の容赦のない拡大に、結局は自由を失うことになった。こうして、父の死後、ウォヴォカは地元の牧場主デイヴィッド・ウィルソンの季節労働者となった。ウォヴォカは英語を学ぶことも家に移り住むことも拒絶したが、今では白人から “ジャック・ウィルソン” と呼ばれ、熱心で頼りになる農場の働き手とみなされている。ウォヴォカは、メイソン・バレーで牛や羊の世話をして生涯を過ごすつもりであった。

モーゼやジョセフ・スミスといった他の偉大な予言者と同様に、ウォヴォカも山で啓示を受けた。1888年後半か1889年初頭のある日、デイヴィッド・ウィルソンのために木を切っていると、空が暗くなり始めた。見上げると、彼は “太陽が死んでいる” (日食)のを見た。続いて、木々に大きなどよめきが起こった。彼は斧を降ろし、音のする方向に走った。彼は即座に “死んだ”、つまり意識を失くした。その後、ウォヴォカがムーニーに説明したように、彼は “あの世” に連れていかれた。

その場所で彼は、神と、ずっと昔に死んだ人々とに出会った。彼らは昔の娯楽や仕事に没頭し、みな幸せで、いつまでも若かった。そこは獲物に溢れた、悦楽の国だった。神はすべてを示した後、部族に戻り、人々に次のように告げよと言われた。善い行いをし、お互いを愛しなさい。言い争いをしてはいけない。白人と仲良く暮らしなさい。(略) 戦争を好んだ古い習慣はみな捨て去りなさい。もし私の教えに忠実に従えば、ついにはこちらの世界で友人たちと再会するだろう。そこには、死も病も、老いもないだろう。[含蓄的に、白人も]

インディアンの人々へのギフトとして、神はウォヴォカに神聖な踊りを与えた。毎回5日連続して行われるこのダンスを時折実践することによって、ダンスを実践する者は美しくなり、新しい時代の到来を早めることができるとされた。彼はまた、天候を予知し、コントロールする力も与えられた。後にムーニーは、ウォーカー・レイクにいる元インディアン管理官にインタビューし、次のように聞き出している。「ウォヴォカはかつて、自分の超自然的能力についての声明を作成し、自分の提案 — もし少額の定期給付金を受け取ることができるなら、居留地に住み、ネバダ州の人々に天からの最新のニュースを伝え、必要な時にはいつでも雨を降らせることに同意する、というもの — を添えて、大統領(クリーヴランド知事)に宛ててくれと頼んできたことがある。」 その管理官は、ウォヴォカを真剣に受け取っているふりをしながら笑いをこらえ、結局約束したように手紙を出すことはなかった。

“ジャック・ウィルソン” を知っていて彼を好ましく思っている者も含め、地元の白人は横柄にも、この啓示を予期せぬ日食に対するヒステリックな反応と解釈した。反対に、パイユート族にとって、これは長年待っていた兆候であった。最初のゴースト・ダンスは、1889年1月に、ウォーカー・レイク居留地で行われた。それは、直径で大陸半分ものスピリチュアルな激震を生み出した。すぐに、ワショ族、ユート族、シャイアン族、バノック族、ゴシュート族らのグレートベースンのすべての先住民が、“キリスト” 自身がウォーカー・レイクにいて、先祖たちの世界を復興する聖なるダンスをパイユート族に教えているという噂を聞いた。これらの部族は、その良いニュースを近隣の部族に伝え、近隣の部族はさらにその近隣の部族に伝えていった。すぐに、カリフォルニア、ユタ、アイダホ、モンタナの、そしてついには、オクラホマ、ネブラスカ、アイオワ、サウスダコタの居留地からの使節団が、ウォーカー・レイクに到着した。2年の間に、40近くの部族がウォヴォカの聖なるサークルに入った。太平洋からミシシッピ川までの西部部族を襲った復活信仰熱を免れたのは、死者についてのいかなる言及をも禁止する宗教を持ったナバホ族だけであった。

ウォヴォカの教えについて、口頭や人づてに聞いた矛盾する多数の報告とは反対に、1891年に予言者自身がブラック・ショート・ノーズの使節団の1人に口述し、ムーニーによって発表された実際の手紙がある。アラパオ族の若者は、ウォヴォカの言葉を “カーライル方言” で書きとめた。それを、オクラホマで学校に通っているブラック・ショート・ノーズの娘が、適切な英語に書き換えた。ムーニーが強調するように、これは “メシア自らが信者たちに与えたものであるがゆえに、ゴースト・ダンスの教義についての正真正銘の公式な声明となっている”。 それはまた、スピリチュアルなものを簡潔に表したモデルでもある。

このことを白人に言ってはならない。イエスは今、この地上にいる。彼は雲のように現れる。死者はみな生き返る。彼らがいつここに現れるか、私には分からない。おそらく、この秋か春であろう。その時が来れば、もはや病はなく、みな若さを取り戻すであろう。

白人のもとを去るまでは、彼らのために働くことを拒んだり、彼らと諍いを起こしてはいけない。新しい世界が到来した時に大地が震えたとしても、恐れてはいけない。あなたがたには害がないであろう。

6週間毎にダンスを行うことを望む。ダンスでは宴会を催し、各自が食べたいものを食べなさい。それが終わったら、水浴びをしなさい。それだけで結構。いつか再び、私からの良い啓示を得るであろう。嘘をついてはいけない。

ムーニーがレポートの読者に指摘したように、ウォヴォカが説く道徳律は、“ゴータマ・ブッダの時代からイエス・キリストの時代まで、どの宗教体系でも見られるように、簡潔ではあるが、純粋で包括的である”。実際に、ムーニーは、ゴースト・ダンスがインディアン独自の衣をまとった新約聖書である、あるいは少なくとも、精神的な核であると論じている。分断され、敗北した人々に対して、ウォヴォカは団結、愛、そして再生の希望を説いた。“かつてユート族、シャイアン族、ポーニー族の原動力となっていた、お互いに対する恐ろしい程の憎悪を知っている者で、かつ、現在彼らの間に存在する兄弟愛の精神を比較できる者だけが、ゴースト・ダンスの宗教が成し遂げたことを認識することができる。(略) それは民族の歴史において、二度とは起こりえない程の大きな革命なのである。”

ゴースト・ダンスの人間的な意味をさらに説明するために、ムーニーは、幼い息子を亡くしたばかりのアラパオ族の友人の言葉を引用する。“私はポニーを一頭たりとも殺さない。そして妻は、自分の腕を深く傷つけたりしない。友人が死んだ時には、以前はそうしていた。もう二度と彼らに会えないと思うと、気が滅入ってしまうからだ。しかし今では、私たちはみな再会できるということを知っている”。儀式そのものについて、特に催眠効果を生み出すダンスの役割について、ムーニーは白人の読者に、彼ら自身の宗教の慣習が知らない人にどのように見えるかを考慮するよう忠告した。“念力で治療する者や、シェーカー教徒、霊媒やその類のものを生み出す国では、よその国に行かなくとも、これらのことと同じようなことは簡単に見つかる”。

蜃気楼

ムーニーがウォヴォカと会話して100周年となる1991年1月に、私はネバダ州のウォーカー・レイクを訪れた。予言者の墓と、彼の子孫の暮らしぶりを見たいという単純な望みしか抱いていなかった。最初、墓石を見つけることが出来なかったので、20代前半のパイユート族の若者に助言を求めた。彼はフォードの赤の小型トラックに座り、コーヒーを飲み、Ice-T が “Fuck the police(クタバレ警察)...” とラップするのを聞いていた。彼はカセットプレーヤーのボリュームを下げ、笑顔で道順を教えてくれた。それから、彼はまた Ice-T のボリュームを上げた。

ウォヴォカの質素な墓で、イーグルの羽根が入っているアワビの貝殻と、いくつかの薬きょうを見つけた。最近供えられた花もあった。ただの記念碑以上の意味を持っていることは明らかだった。ゴースト・ダンスの宗教はウーンデッド・ニーで死ななかったし、ウォヴォカは多くのネイティヴ・アメリカンにとって、今でも生きている存在なのである。彼のスピリチュアルな遺産はダイナミックであり、いまだに進化を遂げている。

ウォヴォカのメッセージは、その中心をなす原理は理解されているが、詳細においては、個々のヴィジョンや各部族の文化の具体的な歴史に適合するよう、多様に手が加えられていることに、ムーニーは驚嘆の念を表明していた。例えば、アラパオ族は、復興した世界はその前面に炎の壁を立てて前進し、白人をヨーロッパに追い戻すと信じていた。それに対し、もっと辛い思いをしてきたラコタ族は、白人の文明は地震や山崩れによって生き埋めとなり、生存者は川にいる小さな魚に姿を変える、というヴィジョンを持っていた。シャイアン族は、インディアンの人々が雲をくぐりぬけ美しい狩猟場に運ばれるという、ネイティヴ版の携挙を好んだ。一方、ショショニ族は、インディアンと白人が平和に共存するパラダイスを予見した。しかしながら、ほとんどの場合、ゴースト・ダンスによって起こる4日間続く大いなる眠りが、新しい大地への実際のスピリチュアルな道となっていた。インディアンが目覚めてみると、白人はただの悪い夢であったことに気付くのだ。

ウォヴォカの墓を訪れた1年後、ネバダ州の核実験場で “グローバル・ヒーリング” デモを後援している、パイユート族とショショニ族の活動家と、ウォヴォカの遺産について議論する機会があった。千年王国がすぐにも実現するという曾祖父たちの期待は(初期のキリスト教徒のように)くじかれたかもしれないが、白人の文明が自らが招いた地殻大変動によって破壊された後、統一されたインディアンが西部の執政を取り戻すというウォヴォカのヴィジョンは、かつてない程に説得力がある、と彼らは核兵器を装備した砂漠を劇的な背景にして強調した。そのうちの1人が、水平線を指で指し示し、「こんなことすべてが、いつまでも続くと本当に思うのか?」と、私に挑んだ。彼のジェスチャーは、核実験場だけでなく、前世紀の征服というものがもたらした、ダム、カジノ、郊外の住宅地、爆撃訓練場、刑務所、テーマパーク、産業廃棄場、豪邸にトレーラーパークといった、主要なモニュメントをすべて含んでいることを意味していた。

現代のパイユート族やショショニ族自身は、もちろん、電化された家に住み、小型トラックを運転し、子供たちを大学に入れ、そして、連邦議会の圧力団体のメンバーでもある。しかし、彼らは、人工的な世界とネオンに輝く風景の根本的な不安定さを鋭く認識しながらそうしているのである。それは、彼らが苦しみながら適応してきた不幸である。彼らの生活の外側の装いを変えてはいるが、内面では抵抗し続けている。ゴースト・ダンスの本質は、おそらく、この大きな蜃気楼より長く続くための、他ならぬ道徳上のスタミナなのである。

予言

ムーニーがウォヴォカに出会った日に、フレデリック・ジャクソン・ターナーが何をしていたのかを考えてみるのは面白い。暖かい暖炉の前で、家族とともに大晦日の晩餐の席につきながら、その2年後にシカゴで催された世界コロンビア博覧会で行った有名な演説について、既に思いを巡らせていたのであろうか?サウスダコタで先頃起こったスー族の叛乱についての、新聞の生々しい報告に、どう反応したのだろうか?ウォヴォカが誰なのか、ムーニーが誰なのか知っていたのだろうか?

私はターナーの墓を訪れたことがないので、貝殻やイーグルの羽根、銃のカートリッジはもとより、最近でも花が供えられているのかどうか知らない。しかし、彼の地味なカルトは、絶えることなく生き続けている。歴史家は、もう4世代もの間、彼の墓に行進し続けている。そして、このポストモダニストの時代にあっても、そのボスに脱帽しない記事や研究論文はほとんどない。西部の史料編纂には、他の主要な伝統があるのも事実だ。最も著名なのは、ボルトンの比較フロンティア研究学派と、イネスの主要貿易の歴史地理学であろう。その上、アメリカ例外主義でもある修正社会主義者や、都市や商品の循環を研究するターナー派を作り出すために、この分野内で多くの異種結婚が行われてきた。しかし、論理の系統がバークレー、トロント、マディソン、あるいはたとえパリで始まったとしても、そして彼らが犠牲者とともに嘆こうが、征服者とともにほくそ笑もうが、この分野で働くほぼ全員が、フロンティアから地域への、植民地周辺からサンベルトへの進化の経路を受け入れている。彼らはほぼ当然のこととして、地域のアイデンティティと歴史的連続性のある一定のしっかりしたコアを認識している。

皆、すなわち、ウォヴォカの後継者をのぞいて。彼らは完成品、征服された風景、一次元的な歴史の語り口、管理された生態系が持つ究極の目的を拒否する。彼らは景気循環よりはむしろ存在論のカオスを見る。彼らは、白人の西部では、伝統や意義の “永続” とされている構造は、ほとんど1世代以上続かないうちに、倒され取り替えられるということを知っている。かのドイツ人哲学者のように、彼らは皆、「すべての形在る物は空に消える」ということを熟知している。それには、私たちが大切にすがりついている、西部が地域だという概念も含まれている。

別の言い方をすれば、ウォヴォカは、アメリカ西部の歴史の終末論的ヴィジョンで、3代先の子孫を支えている。“終末論的な” というのは使い古され価値を失った言葉であるから、ユダヤ的な宗教での正確な意味を思い出すことが重要となる。世の終末は、文字通り、最後の審判の日が確実になった状態で可能になった、世界の秘史の黙示である。それが代替案であり、低位階級としてさげすまれた歴史、敗北した民族、絶滅する文化なのだ。言い換えれば、ウォヴォカは、近づく千年王国の風景の、ある終末的特徴という観点から西部の歴史を再解釈するために、新天変地異的認識論を私たちに提案している、と私は主張する。スプロール現象、ごみ、中毒、暴力、そして、シミュレーションが、ロッキー山脈より西のすべての重要な生活空間を圧倒した時、すでに目に見える将来がよく見晴らせる地点から、その歴史を再び開くことを、彼は私たちに勧めている。いうなれば、これが究極のパラノイアに削ぎ落とした、ターナー派の歴史である。西部はロサンゼルスになるのだ。

ゴースト・ダンスを実行し続けている者にとって、この終点は、逆説的に、再生と復興の時でもある。このブラックホールを通して、西部はカタストロフィーの特異点に消え去っていく。そしてその反対側には、サーモンが豊富にいる川と、野牛で黒ずむ平原が、再び姿を現すのだ。

translated by yoyo