(viggomakesme.hormonal-as-hell のスキャンより)
By Dennis Hopper
昨年暮れ、デニス・ホッパーとヴィゴ・モーテンセン、そして撮影監督のクリス・ドイル(*1)が、カリフォルニア・サンタモニカにある “トラック16” に揃って登場した。彼らの目的は、展覧会に来場した人々からの質問に答えること。ドイルとモーテンセンの作品が展示され、ホッパーが進行役を務めた展覧会である。
ステージがめちゃくちゃになるまで、そう時間はかからなかった。ホッパーがリルケの詩を読み、ステージにはドイルのささやきが流れる。そしてモーテンセンは、ドイルがハイ・テンションでステージに立っているのをよそに、1072年に書かれた漢詩『吉祥寺賞牡丹』(*2)を朗読しようとしていた。夜は早々に、別の何かへと姿を変えてしまった。まるで、マルセル・デュシャン(*3)が振り付けをした『三バカ大将』のように。もはや誰も、口をはさむことができなかった。
本誌は、ホッパーとモーテンセンに、挽回のチャンスを与えることにした。
「さて。自分の詩で、暗唱できるものはあるかい?」
「そうだな、一つは・・・」
「どんなの?」
「本当に、ちょっとしか憶えていないんだ。あのラグマットに書いたやつとか」(フロアにはラグマットが敷いてある)
「なんていうやつ?」
「『Matinee』っていうタイトルだよ。After years of merging/and allowing yourself/to be assimilated/your hair and clothes/have turned brown./Then, one afternoon/you exit a theatre/after taking in/the restored version/of The Hero Returns/and find yourself/wanting to be treated/special.」
「このくらいだな・・・うん・・・」
「これって、リー・ハーヴェイ・オズワルド(*4)について書いた詩?」
「えーーーーーっと・・・どこからアイディアがひらめいたかなんて、わかんないよ!」
「デニス、今日はシェイクスピアの作品を読み上げたり、名文句を引用したりするはめにならないようにって、願ってたんだ」
「了解。そんなことはしない」
「いつも思うんだけど、あなたは家に帰ると、格言や自分の詩を、山ほど暗記してるんじゃないかって・・・」
「その通り! ところで、君は農場で過ごしてるのかい?」
「少しだけ農場にいたことがあるよ。僕の父の家族は、みんな農夫だからね。養豚農家なんだ」
「アーティストとしての君の作品を見て思ったんだよ。殺された豚の写真とか、あったじゃないか。あれは、君の家族の農場で撮ったものなの?」
「あれは、道路の脇で見た光景なんだよ。子供の頃じゃなくて、もっとずっと後のことだけど。すごく興味を引かれたんだ。いろんな意味でね」
「道路の脇で、豚を解体していたのかい?」
「そうだよ。家族で作業しているみたいだった。料理用に下ごしらえをしていたんだ。僕が写真を撮らせてほしいと頼んだら、彼らはあんまり気が進まないようだった。僕のことを、動物愛護団体の人かなんかだと思ったんじゃないかな。ただ個人的な興味で撮りたいだけだってことを説明したよ」
「君の絵やコラージュの作品展から出てくるとさ、すごく君を知ったような気分になるんだよ、ヴィゴ。すごく良く知っている・・・」
「養豚農夫?」
「僕は作品を作る時、すごく手近なものを題材にするんだよ、デニス」
「リルケ曰く、詩人なら、ラブ・ポエムは避けるべきだって。なぜかって言うと、何かを書こうと思っても、もう既に、もっといいものを誰かが書いてしまっているから。日常の出来事について書いて、生活の中から詩を生み出そうとするべきだと、彼は言っている。T.S.エリオット(*5)の『J.アルフレッド・プルーフロックの恋歌』の中に、素晴らしい一文があるんだよ。“私は自分の一生をコーヒーのスプーンで計り尽くした”。この文章には、いつも心を打たれる。毎日の生活の中から出てきた言葉としてね」
「オーティス・レディング(*6)の『煙草とコーヒー』ってのもあるね。誤魔化して乗り切ることができる時もあるけど、そこに真実の要素や、自分自身を投影するってことが少しもなければ、とてもじゃないけど、二度、三度は乗り切れないよね。愛について書こうとすると、普通は変に感傷的になったりする。僕の場合、何か別のことを書こうとしていたのに、ラブ・ポエムになっちゃったってこともあるんだ。で、リルケはラブ・ポエムについて、何て言ったんだっけ?」
「避けろと言ったんだよ」
「詩でも、絵でも、演じることでも、失敗に助けられるってことがあると思うんだ。絵を描いていても、止めどきがわからなくて、たくさんの作品を台無しにしたよ。でも、作品を少し脇に置いておいて、少し経ってから見直すと、これを削ろうとか、何か他のものをつけ加えようとか、そんな気持ちになるものなんだ。もう焼き捨ててやる!って時になって、突然、良く思えてきたりね。まあ、最初から何もつけ加えるものはないって思う時もあるんだろうけど」
「色々やってみればいいんだよ、ヴィゴ。全部が全部、あらかじめ考えた通りに出来上がるんなら、新しいものなんて生み出せないだろ」
「そういうやり方で、詩を書いたり、絵を描いたり、映画を作ったりしている人はたくさんいて、それで成立しちゃってるんだよね。お金も稼げて、人を引き付けることだってできてしまうんだ。それは必ずしも間違いじゃない。でも、僕は、ぶち壊すリスクの方を取るね」
「そう、それは必ずしも間違いじゃない。でも、試行錯誤を繰り返せば、きっと・・・」
「もっと学べる?」
「そして、何か新しいものを生み出すことができるかもしれない。私は、創造の98%は偶然だと思ってるんだ。1%が知性。そして残りの1%は論理だ。偶然をうまく作用させなくちゃいけない」
「自分を驚かすことができなくて、どうやって他人を驚かすことができる?」
「誰か答えてやってくれ!」
「ちょっと映画の話をしよう。最初の映画はなんだった? どうやってこの仕事を始めたんだい?」
「最初に出た何本かは、セリフはあったけど、全部カットされちゃったんだ」
「どの映画?」
「最初の5本は全部。ニューヨークに住んでいた頃、ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』で役をもらったんだ。面白かったよ。即興劇って感じで。ウディ・アレンはすごくたくさんの場面を撮影して、そのほとんどを使わなかった。その後、初めてハリウッドに来て、ジョナサン・デミの作品に出た。ゴールディー・ホーンが主演でね。僕の役は、若い海軍兵だった。第二次世界大戦中の話で、休暇中のその兵士が、映画館でゴールディー・ホーンを口説くってシーン。結局、そのシーンはカットされて、彼女がひとりで映画を見ているっていう設定で取り直されたよ」
「演劇の学校に入ったいきさつは?」
「僕はデンマークに住んでいたんだけど、ガールフレンドを追いかけてニューヨークに出てきたんだ。新聞で “アクターズ・レパートリー・カンパニー” の広告を見つけて、オーディションに応募した。切り裂きジャックかもしれないっていう役どころ。彼の独白ってことで、アイザック・ディネーセン(*7)の作品を予習して行ったんだ。僕が暗記していった詩は、結局、本番の舞台でも読むことになったんじゃなかったかな。オーディションの後、彼らは僕に “ありがとう、毎週水曜日に来るように” って言ったんだ。で、クラスに参加することになった」
「ためになった?」
「なったよ」
「ショーン・ペンとやった『インディアン・ランナー』の前に、主役を張ったことはあった?」
「『プリズン』っていうホラー映画で主役をやったよ。レニー・ハーリンがアメリカで撮った最初の作品だったんだ。ショーンが僕を見たのは、デビッド・アンスポーが監督した『想い出のジュエル』。僕は田舎者の役をやっていた。ショーンは僕に台本を送ってきて、僕らは一緒にディナーを食べた。で、僕に役をくれたんだ。(ホッパーが葉巻に火をつけるのを見て)祖父を思い出すなあ」
「私が、君のじいさんを思い出させるって?」
「見かけが似てるってことじゃないよ。彼は、いつも葉巻の吸い差しをくわえていたんだ。デンマークで養豚農家をやっていたのが彼なんだけど。家の隅々まで、カーテンも、家族みんなの服も、葉巻の匂いがした。毎年、春になると、祖母が大掃除をするんだけど、それでも匂いは染み付いてたな」
「私のじいさんは、すごい人だったよ。夫婦でカンザスに農場を持っていてね、私は大きな雌豚をペットにしていたんだ」
「彼女の名前は?」
「憶えてないよ」
「でも、可愛がってたんだろ?」
「ああ。私は変わった子供でね、ペプシコーラの瓶にゴムの乳首をつけて、5歳になるまでそれを飲んでた。私はペプシの瓶に育てられたんだ。大きな雌豚が、子供たちに乳をやるのを見ながらね。だから、君の作品の豚を見た時、心が締め付けられるようだったよ」
(しばらく間があく)
「よくわかるよ、デニス」
「自分ではどう感じていたかわからないけど、ヴィゴ、デンマークとアルゼンチンで子供時代を過ごすなんて、すごくエキゾチックじゃないか」
「父親が落ち着かない男で、ラッキーだったよ。彼は若い時に農場を出て、ノルウェーで僕の母に出会ったんだ。その後、アメリカにやってくることになるんだけど。本当に、落ち着かない人だったんだ。今でも、ある意味、そのままだけど」
「今は、どこに住んでいるんだい?」
「皮肉な話なんだよ。僕の両親は、僕が11歳の時に離婚して、父は仕事のある場所を転々としていたんだ。で、何年か前に、3度目の奥さんと一緒に、ようやく農場を買って落ち着いた。ニューヨーク北部、カナダ国境の近くでね、僕の母が住んでいるところから15分ほどの距離なんだ。景色も、気候も、デンマークとほとんど変わらない。そんなわけで、デンマーク人農夫以外のものになろうとした男は、長い旅の果てに、ニューヨークのデンマーク人農夫になった」
「おっ、アダム・サンドラーの映画のタイトルが出来たな。『A Danish Farmer in New York』」
「『俺は飛ばし屋/プロゴルファー・ギル』(*8)は見た?」
「いいや。アメフトのやつは見たよ」
「『ウォーター・ボーイ』だね」
「そうそう。『プロゴルファー・ギル』は、すごい映画だと思うよ。笑いが止まらなかった。ここ最近で見た映画の中で、一番楽しめたんじゃないかな」
「息子に2度ばかり見せたけど、もう二度と見たくないだろうな。いい子だから、調子を合わせてくれたけどね」
「エリア・カザン(*9)について私が言いたいのは、あの受賞が、彼の映画製作の業績だけによるものかどうかってことだけだ。『欲望という名の電車』、『革命児サパタ』、『波止場』・・・」
「『群集の中の一つの顔』、『エデンの東』・・・」
「『草原の輝き』。もし、あの受賞が芸術的な功績によるもので、映画を作るために何をしたかは含まれないのだとしたら、受賞にふさわしい人は、他にいない・・・」
「・・・ピート・ローズが野球殿堂入りしていないのと同じことだね」
「馬鹿げてるよな。話題を変えたいわけじゃないけど、ヴィゴ、『オーバー・ザ・ムーン』でダイアン・レインと共演したんだね?」
「そうだよ。あなたは『ランブルフィッシュ』で共演しているよね?」
「その通り。地球で一番セクシーな女性だ」
「すばらしい女優だよ。勇気があって、正直で」
「俳優としてだけじゃなくて、人間として素晴らしい」
「あー、デニス、それ僕が言おうと思ってたのに」
「心配するな、ヴィゴ。そのうち君も言えるようになるよ」
[脚注]
(*1) クリス・ドイル:撮影監督。ヴィゴとは『サイコ』で仕事をしている。
(*2) 漢詩『吉祥寺賞牡丹』:宋の詩人「蘇東波」(そとうは/Su Tung-p’o)の作品。ちなみに、この「蘇東波」(波は、本当は土ヘン)は、豚の角煮・トンポーローにゆかりの人らしい。英訳されている詩は以下の通り。
「Viewing Peonies at the Temple of Good Fortune」
translated by Burton Watson.
I'm not ashamed at my age to stick a flower in my hair.
The flower is the embarrassed one, topping an old man's head.
People laugh as I go home drunk, leaning on friends —
ten miles of elegant blinds raised halfway for watching.
日本語訳
「吉祥寺に牡丹を賞す」
頭に花を飾っても、私は恥じたりしない
老人の頭に飾られることを、花は恥じるだろうが
帰り道、酔って友人たちに助けられるのを見て、人は笑う
10マイルにわたって、それを見るために
優美なブラインドが半分開けられていた
(*3) マルセル・デュシャン:(1887-1968)ダダ・シュルレアリスムの体現者。革新的な芸術家だそうです。
(*4) リー・ハーヴェイ・オズワルド:J.F.ケネディ暗殺犯とされた人物
(*5) T.S.エリオット:(1888-1965)アメリカ出身。その後イギリスに帰化した詩人。ノーベル賞作家。
(*6) オーティス・レディング:(1941-1967)ソウル・シンガー。若くして飛行機事故で亡くなっている。死の直前に録音された『ドッグ・オブ・ベイ』は大ヒットを記録している。文中の『煙草とコーヒー』の原題は『Cigarettes & Coffee』(そのまんまです)。
(*7) アイザック・ディネーセン:(1885-1962)デンマークの女流作家。『Out of Africa』(映画『愛と哀しみの果て』の原作)で有名。20世紀のデンマークで最も世界的な名声を博した作家。
(*8) 『俺は飛ばし屋/プロゴルファー・ギル』:アダム・サンドラー主演の1996年作品。アイスホッケー選手になりたかった男が、驚異的な飛距離でプロゴルフ界をかき回すという話。ヴィゴはこの映画について、プレミア誌(ヴィゴが表紙になった号。アメリカ版のみ収録)のインタビューでも言及しており、かなり気に入っている模様。
(*9) エリア・カザン:映画監督。1998年にアカデミー名誉賞を受けるが、式場にいた半数が拍手を拒否。1952年にハリウッドに赤狩りの風が吹き荒れた際、友人を共産党員だと暴露、自らを擁護する声明を出して避難を浴びたのが原因。