VLife  2003.10 TORn のスキャン
The Other Side of Viggo Mortensen

TORnのスキャンより TORnのスキャンより
(TORn のスキャンより)

By Paul Young

「いったい、ヴィゴはどこにいるの?」
L.Aのビバリー大通りにあるStephen Cohen Galleryで、人々が周りを見回しながらつぶやいている。ヴィゴ・モーテンセンの写真展の初日。会場には、彼の友人や関係者たちが詰めかけていた。彼らの目当ては、印象深く、抽象的なモーテンセンの作品。主役を務めたディズニーの大作『Hidalgo』製作中に彼が撮影した写真が、この日初めて公開されるのだ。近日公開となる製作費9,000万ドルの『Hidalgo』で、彼はサハラ砂漠を馬で横断した最初のアメリカ人を演じている。

作品はもとより、集まった人々はモーテンセン本人にも会いたがっている。しかし、誰も彼の居場所を知らないようだ。

実はこの時、彼はどうにも会場に入る気になれず、6〜7人のツンツン髪の若者たちと一緒に、駐車場にいた。チャコール・グレーのスーツに黒い革靴。その輪の中では背も高く、洗練された格好はしているが、特別目立ってもいない。彼らはモーテンセンの、汚れた青いトヨタ・プリウスの周りに集まり、大きな音でダッシュボードから流れてくる、暗いトーンのギター・ノイズに耳を傾けていた。

「これ、バケットヘッド?」と、イライジャ・ウッドの隣りに立っていた、ぶかぶかのジーンズをはいた男が尋ねる。「そうだよ」とモーテンセンは答え、むせぶようなギターの音について、こう続けた。「音のことは、よくわからないんだけど。どう思う?もっと、明るいトーンにしたほうがいいかな?」

これこそが、ヴィゴ。会場の中で、多くの人たちが個展について彼と話そうと、やきもきしているというのに、彼はもう、次のことで頭が一杯なのだ。今、彼が話題にしているのは、実験的なサウンドで有名な日本人ギタリスト、バケットヘッドと一緒に作ったニュー・アルバムについてである。

「僕はミュージシャンじゃないから」と、列を作っていた5〜6人と握手をしながら、後に彼は語ってくれた。「ピアノやハーモニカをたしなむ程度だよ。ちょっと試してみるのが好きなだけ」

この10年、キャスティング・エージェントや雑誌、ハリウッドの関係者たちは、何度も、ヴィゴ・モーテンセンが大物になるだろうと予言してきた。言われ過ぎるのも考えものだ。モーテンセンはかつて、こんなジョークを言ったことがある。「何度も“ついに(スターの座に)たどりついたね”って言われたよ。自分では、どこに向かっているのかも、わからなかったのに」

しかし、モーテンセンはすでに(もしくは、ほとんど)、アートの世界では、成功を収めている。現在までに、6回の個展を開催。開催地はキューバ、デンマークと幅広く、近々ニュージーランドの美術館でも予定されている。著書は9冊以上あり、その内の何点かは、モーテンセン自身が経営する小さな出版社、パーシバル・プレスから発行されている。そして、前述のバケットヘッドと一緒に作ったような、実験的なロック/ジャズのアルバムも3枚リリースしているのだ。ポエトリー・リーディングは頻繁に行われ、その会場では言うまでもなく、熱狂的なティーンエイジャーたちが、彼の笑顔をひと目でも見ようと、何時間も待っている。彼の作品は、競売で高値をつけるということはないかもしれないが(ラージ・スケールの写真が、3,000ドルから5,000ドルという、それほど高くない値段で売られているようだ)、購入者には、Handprintのジェーン・バーリナー、CAAのベス・スウォフォード、ウーピー・ゴールドバーグといった、そうそうたる名前が並んでいる。

そんなに価値のあるものなのか?

端的に言えば、答えはイエスである。特に、彼の写真に関しては。“Chris’ Dog”(2001)、“Red #5”(1998)、“The Low Countries”(2001)といった彼の傑作は、ロバート・フランクやダニー・ライアンと比較されるほどなのだ。こんな話もある。ニューヨークのギャラリー経営者であるロバート・マンは、彼の作品を自らのギャラリーで紹介しようと決めた時、モーテンセンが何者なのかさえ、知らなかったのだと言う。

「有名人のアート作品には、あまりよくないイメージが付きまとう」と、マンは言う。「しろうとの道楽というようなね。でも、私はヴィゴを、それと一緒にしたくないんだ。彼は、絵を描くことにこだわっているわけではない。そんなことは問題じゃないんだ。彼は、アート作品を作りたいんだよ。心の底から作りたいと思って、作っている。私はそう思うよ」

そう、彼は本当にたくさんのアート作品を作っている。カリフォルニアのベニス郊外にある、彼の質素な家に足を踏み入れると、倉庫に入り込んだような気分になるのだ。いたるところにある、写真や絵画、覚書のノート。それらが箱に押し込まれ、棚にうず高く積まれている。「とてつもなく大きな堆肥の山ってところかしら」と、モーテンセンの著書「Recent Forgeries」に序文を寄せた評論家、クリスティーン・マッケンナは言う。「無尽蔵の養分が、そこから供給されるの」  もちろん、決してすべての作品が珠玉の名作というわけではない。しかし、彼がフル回転で能力を発揮すれば、本当に息を呑むような作品が生み出される。デニス・ホッパーの言葉を借りると、それは、潜在意識という最もふさわしい場所に、モーテンセンの本能があるからなのだ。

映画のセット周辺で撮影したものにしても、彼のプライベートに関わっている人々を撮ったものにしても、モーテンセンの傑作と言われる作品には、断片的で儚い、普通なら気にも留めないようなものが、驚くほど容易に写し出されている。ある批評家は、彼の作品を“完全なる口語体”と評した。言い方を変えれば、彼は“素晴らしい”スナップ写真を撮っているということになる。

「基本的に、写真にしても、絵にしても、詩にしても、演技にしても、僕がやっていることはすべて、出どころは同じなんだ」と、モーテンセンは言う。「すべてが物語を語っている。同じ木から伸びた枝なんだ。コミュニケーションという木からね」

これが、インタビューや面と向かっての交流を、徹底的に避けている男の発言だというのが面白い。

モーテンセンのアートから、その人となりを知ろうとするのは至難の業である。少なくとも、ビジュアル・アートからは。描き出すイメージが、あまりに偶発的で、ぼやけており、断片的であるために、彼のプライベートが本当はどんなふうなのか、そこから情報を引き出すことができないのである。しかし、彼の写真 —詩の方が、もっとわかりやすいだろう— をじっくりと見つめれば、そこには彼の世界観と言えるようなものが表れている。

評論家のケビン・パワーはこう書いている。「小さな難破船の破片の中から、輝くものを見つけられるような注意力を養い、磨き上げるのが自分たちの仕事だと、偉大な芸術家たちは言っている。ヴィゴは、こだわりを持って、これを実行しているのだ。彼は、小さな不思議や一瞬の驚きを見つけ出す目を養い、見つけ出したものを作品にしていくことによって磨き上げる。こうした作品づくりは —きっちりと構成されているが、意識的にそうしたわけではない— 彼の考える“物事のあり方”をはっきりと映し出しているのだ」

これが、モーテンセンの本当の姿である。あくせくしないで、自由に、飾らずに、という姿勢でありながら、彼はまた、タフで、厳格で、ワーカホリックでもある。例えば、彼の仕事仲間たち —映画関係者もそうでない人も— は口を揃える。ひとたび仕事となると、彼の熱の入れ方は尋常じゃない、と。自身の出版社の経営や、アート制作、そしてトップ・スターであり続けること。実際、これらをこなすために、目の回るような忙しさだというのに、彼は今までパーソナル・アシスタントを雇ったことがないのである。これからも雇うつもりがないのは、ただ“任せっぱなしにできない”からなのだと言う。

「きっと、“仕切り屋”みたいに思われるんだろうな」と、彼は心の内を語った。「でも、僕はただ、自分でやるのが好きなだけなんだよ。自分の、この手でね。それが僕のやり方なんだ。じゃないと、管理しきれなくなってしまう」  ありがたいことに、実際に会った彼は、仕切り屋には見えなかった。個展の数日後、家族経営のメキシカン・レストラン(彼の選択である)にやって来た彼は、クロッグ(訳注:木底のつっかけサンダルみたいなもの)を片手に車を降りると、タバコの吸殻やガムが落ちている道を、レストランの入り口まで、裸足で歩いてきたのだ。もう一度言おう。これが、モーテンセンの真髄。彼の“裸足好き”は、仲間内で今や伝説となっている。レストランの決まりに従って、店に入る前にはきちんとクロッグを履くのだけれど。

身長5フィート11インチ(約180cm)。健康的な肌、ごつごつした手、ゆったりとした動作。どこから見ても、アウトドア派の男である。放牧場でくつろぐ姿が目に浮かぶ —彼は「Ah, shucks」(訳注:“おいおい、よせよ”というような感じの言葉)と、カウボーイのようにつぶやいたりもするのだ。確かに。店の安っぽいステレオから「コリード」(訳注:メキシコ民謡、物語歌)が大きな音で流れていても、彼は相変わらず、低いキーの、弾むようなスタッカート・ボイスで話し続ける。彼の言っていることを、いかに聞き取るか。いつの間にか、その方法を身につけている自分に気づく。彼にコントロールされている?そうかもしれない。まあ、彼にしてみれば、ただシャイだというだけで、他人をコントロールしようだなんて、きっと思ってはいないのだ。

「なかなか時間が取れなくて、悪かったね」と、申し訳なさそうに彼が言った。「でも……いろいろと、わかるだろ?やらなくちゃいけないことが……写真とか本とかね……僕が……」

声が遠ざかっていく。彼は椅子に深く座り直した。赤みがかったブロンドが、顔にかかる —人気映画俳優、有名芸術家、イケてる男。もう少し“さわやか優等生タイプ”だったら、ビールのCMにでも登場しそうだが、そんなタイプじゃない。彼は、もう一度謝ると、ディナーにしようと勧めてくれた。もしくはビールでも。彼の奢りで。そしてまた、声は遠ざかっていった。

その後の2時間、色々な話題が、波のように寄せては引いていった。今の世界には、もっと思いやりの心が必要だということ。彼の息子の飽くことのない好奇心について。文化におけるアートの価値(語る姿を思い浮かべてみてくれ!)。そして、ひとりの時間が必要だということ。

「毎日、少しでも自分の時間を持たないと、落ち着かないんだよね。」と、不満げに言う。「本当に必要なんだ。1〜2分でもいいから、自分だけの時間が欲しい」

感受性、自然への愛、込められた魂。こうした彼の個性は、自ら流浪の身を選んだゴンドールの王位継承者、アラゴルンを演じるのにうってつけだった。彼が、予想を遥かに超えてアラゴルンになりきったことは、色々なところで記事になっている。例えば、彼がアラゴルンの衣装を決して脱ごうとしなかったのは、文字通りその役になりきることを望んだからだということ。例えば、ある晩、運転するトラックの突発事故でウサギを轢いてしまったが、火を起こして“アラゴルン風料理”で食べることを決断したこと。例えば、いつでも剣を持ち歩いていたこと — レストランにも、車にも、そして、数ヶ月後に行われたアフレコのスタジオでも。

モーテンセンが、これらの逸話について、何かコメントするということはないだろう。少なくとも、今は。こうして、図らずも自分が作ってきてしまった伝説の数々に対して、彼は微笑むだけなのだ。“自己喪失と不安に悩まされている、勇敢で気高い男”というアラゴルンの人物像と“つながりを感じる”とは言うかもしれないが。

「『ロード・オブ・ザ・リング』のどこが好きかって言うと、群像劇だっていうところだろうね」と、彼は説明する。「第3作目のタイトルは『王の帰還』だけど、決して“王”についてだけ描かれるわけじゃない。すべての登場人物がきちんと描かれているんだ。これがとても重要なことなんだよ」

彼がたどってきた道のりと、人生に影響を与えた女性。このふたつに触れずに、彼のアートを語ることはできない。彼の父親、ヴィゴ・シニアはデンマーク人。50年代後半にノルウェーで彼の母親となる女性と出会い、すぐに彼女を追ってニューヨークにやってくる。1958年10月20日、三人兄弟の長男としてヴィゴ・ジュニアが誕生するが、父親はひとところに落ち着けない性格だった。— モーテンセン家の特徴なのだろう。息子に受け継がれているのは明らかだ。一家は、その後10年の間、アルゼンチン、ベネズエラ、デンマークを点々とすることになる。

しかし、このことが家族の負担となり、1969年、ヴィゴが11歳の時、両親は離婚してしまう。この年、彼と母親、そして二人の弟たちは、ニューヨーク北部に移り住んだ。そして、ここで彼は、高校から大学までの教育を受けることになる(セント・ローレンス大学では、スペイン文学と政治学を専攻)。

こうした、幼少時代の不安定な日々は、彼に大きな影響を与えた。もともと感受性は豊かだったが、生活の度重なる変化は、強い好奇心を育てる一方、おそらく、愛することや受け入れることがいかに大切かという思いも、彼に抱かせていったのだろう。

そうなると、青年時代の彼が、カメラのレンズを覗いて心地よさを感じていたことも不思議ではない。モーテンセンが写真を撮り始めたのは10代の頃だった。「それほど真剣に取り組んでたわけじゃないけど」と、彼は言う。彼にとってカメラは、単に周囲の状況をコントロールする術を与えてくれるだけでなく、世の中から彼を隠すベールのようなものにもなっていた。脅威を感じるとともに、奮い立たせてもくれる、この世の中から。

8歳の時、学校で行われた芝居で、モーテンセンは“ドラゴンの尻尾”を演じたが、その後、20代になるまで、俳優になることを真剣に考えたことはなかった。彼の話によると、大学を卒業してすぐ、少しの間デンマークに戻ったのだと言う。そしてそこで、後に彼をニューヨークへ連れ戻すことになる女性と出合ったのだ。—20年前の、彼の父親の行動と似ていないこともない。

ニューヨークへ戻った彼は、ウォーレン・ロバートソンが主宰するレパートリー劇団の広告を目にした。参加申し込みをして、オーディションで切り裂きジャックにインスパイアされた一人芝居を披露した後、彼は芝居を続ける決心をする。「続けられるなんて、まったく思っていなかったんだ」と、彼は言う。「ただ、どんなものか、ちょっと試してみようと思って。そうしたら、なんだかうまくいっちゃったみたいだね。今、こうしているんだから。20年経っても、まだ役者を続けている」

驚いたことに、モーテンセンはいきなり映画の仕事からスタートすることになる。もっとも、最初の出演作である『スウィング・シフト』と『カイロの紫のバラ』では、出演場面をカットされてしまうのだが。1986年、彼は『サルベーション!』という低予算のアート系映画に出演した。共演はイクシーン・セルヴェンカ。影響力の大きいL.Aのパンクバンド“X”のリード・ボーカルである。撮影が終わる頃、ふたりは恋に落ちていた。

セルヴェンカは、当時すでに、詩や絵画、そしてもちろん音楽の分野で認められていた。彼女はモーテンセンに、芸術的センスを拡げるインスピレーションだけでなく、作品を公の場で発表するための自信も与えた。

「人前で自分の詩を読んだことなんてなかったんだ」と、モーテンセンは言う。「彼女から、L.Aの(The Literary Center)beyond Baroqueを教えてもらったんだよ。僕が初めてワークショップに参加した場所なんだけど。彼女には、本当に勇気づけられた。驚くほど、力をくれるんだよ。そして驚くほど、素晴らしい詩人でもある」

モーテンセンは1987年にL.Aに移り、セルヴェンカと結婚する。結婚式は、ワイオミングの荒れ果てた刑務所で行われたという噂が流れた(実際はネブラスカで行われている)。その後、ふたりの間には、息子、ヘンリー・ブレイク・モーテンセンが誕生する。息子の誕生がこの後、自分を“正しい方向へ”向かわせたのだと彼は言う。

この時期はまた、モーテンセンの俳優としてのキャリアが停滞する時期でもあった(『プリズン』、『悪魔のいけにえ3』『ヤングガン2』などの、B級映画に出演している)。映画業界への複雑な思いが日に日に募り、そんなことも、彼をプライベート重視の方向へ向かわせた。

「映画ビジネスに関わったことのある人なら誰でも知っていることだけど、すべてを思いのままにできる可能性なんて、ほとんどないんだよ」と、モーテンセンは言う。「控えめに言っても、うっぷんがたまるね」

90年代中盤までの長い期間、彼が脚光を浴びることはなかった。ショーン・ペンの監督作品『インディアン・ランナー』(1991年)では素晴らしい演技を見せたが、彼を今の位置まで引き上げたのは、『プロフェシー』、『ある貴婦人の肖像』、『G.I.ジェーン』、そして『オーバー・ザ・ムーン』という作品群である。

90年代、彼は詩を書く時と同じ方法で、演技に取り組み始める。慎重に吟味した、無駄のないやり方。彼は言う。両者は共に“とても限られたスペースの中で、たくさんの思いをかき立てていく”ものだと。しかし、こうした、情熱を削ぎ落としたり、過度な情報は与えないようにするといったやり方は、時に、彼にとって不利に働く。

「彼はいつでも真面目そのものなんだよ。それが問題なんだ」と、ニューヨークマガジンの映画評論家、ピーター・レイナーは言う。「とても有能な人物なんだけどね。取材の後に残るのは、いつでも“くそ真面目”という言葉だけなんだ」  実際に彼と会ってみると、なるほど、真面目だ。なによりも、友人たちや仕事仲間を気遣う(彼のマネージャーは、長年の間、リン・ローリングスが務めている)。3本のタバコを巻いて戻ってくると、1本は自分に、そして残りの2本はインタビュアーに渡してくれる。「あとで、もう1本吸いたくなった時のためにね」 — こうした真面目さが、欠点になるとは思えない。

もちろん、これもまた、モーテンセンのいいところである。気取りのない彼は、自己矛盾に満ちていて、とても魅力的だ。細かいことにはこだわらないけれど、同時に移り気。それでいて、決して意思を曲げることはない。

「これを言ったのは、ロバート・ルイス・スティーブンソンだと思うんだけど」と、モーテンセンは言う。「仕事もアートも、きちんとした計画なんてないよっていう感じで、寄り道をしながら進めていけばいい。そんな意味だよ。彼はこう言っているんだ。“希望を持って旅することは、目的地に到達することより価値がある。真の成功とは、一生懸命努力することだ。” “希望を持って旅すること”って、素晴らしい言葉だよね。これこそが、僕のやりたいことなんだよ」

写真のキャプション

LATER, RED (2000)
モーテンセンにとって、セルフ・ポートレイトと写真は、詩や演技や絵画と何も変わるところがない。「みんな同じところからきてるんだ。」と彼は言う。「どれも物語を伝えているんだ。」

UP CLOSE AND PERSONAL
左の "Hindsight 48_49" (2002) と、このページの "Picture 7" (2002) は、ともに『Hidalgo』撮影中に撮られたものだ。「ただの練習だよ。」と、モーテンセンはセルフ・ポートレイトを指して言う。「時にはフレームの中に人物だけが必要でも、まわりには自分しかいないことがあるんだ。」

HAUNTED VISIONS
「大好きだよ。」 アートを制作することに関して、モーテンセンはそう言う。「作るのが大好きだし、自分が何かに完全に没頭している瞬間が大好きなんだ。」 このページに最近の結果を見ることができる。左上から時計回りに、"Miyelo 4" (2003), "Go 6" (2002), "Mitakuye Oyasin" (2003), "Erofoud 11" (2002), "Miyelo 5" (2003), "Son of Gloin" (2000)。反対のページには、写真家 Harriet Zucker がモーテンセンを撮った "Working, Brooklyn" (1998)。

FRIENDLY FIRE
モーテンセンは、めったに撮影現場の俳優やクルーを撮らない。しかし、彼は、『ロード・オブ・ザ・リング』からの3人をとらえた。時計回りに右上から、バーナード・ヒル("Rohan", 2001)、イライジャ・ウッド("Te Anau 1 & 2", 1999)、ドミニク・モナハン("Te Anau 3", 1999)。

表紙について

ヴィゴ・モーテンセンは長年写真を撮り続けているので、彼の特集記事の表紙に使えるセルフ・ポートレイトを持っていないか、本人に聞いてみようと思った。驚いたことに彼は持っていた。ただ、どれだけ沢山あるかということを、誰も予測できていなかった。数日のうちに、大量のスライドに埋もれることになった。セルフ・ポートレイトだけではない。絵、古い写真、ノート — どれも、彼の個人的なコレクションから直に選ばれたものである。『Tamdacht 11』という1枚の写真があった。それは、3月に公開されるディズニーの『Hidalgo』を撮影していた、サハラ砂漠への旅行で最近撮ったものだ。彼のお気に入りのカメラの1つである古いライカを使い、夕暮れ時に1枚の写真を撮った。その写真を見た途端、それがカバー写真になると分かった。

「(映画撮影の間に)起こっていることを写真に撮ることはめったにないんだ。」と彼は言う。「いつもなら、起ころうとしていることを撮るんだけど。」 彼は、『ロード・オブ・ザ・リング』(三部作全部)の撮影時にも同じようなアプローチをとった。そして、次回作のジョン・セイルズ監督作品の撮影の間も、さらに写真を撮るつもりである。

しかし、この45歳の俳優は、『Hidalgo』に格別にインスパイアされたようだ。借り物のハッセルブラッドを使い、大規模で心から離れないようなイメージの、一連の写真を生み出した。これは彼の最新作『Miyelo』のテーマになっただけでなく、ロサンゼルスにあるステファン・コーエン・ギャラリーでも展示されている。(展示は11月1日まで)

「瞬間の感覚をつかみたかったんだ。」と、映画撮影中に撮った、アメリカン・インディアンによるダンスについて、モーテンセンは言う。「だけど、単なる文書というよりは、フィーリングをつかみたかったんだ。このテクニックを使うことによって、つまりこういった長い露光を使うことによって、風景と融合されて透明になる感じがでるんだ。そういう狙いだったんだ。」

そのぼかし技術は、モーテンセンの多くの写真で使われている。「実際には、自分たちはああやってものを見ているんだよ。」と、彼はジョーク半分で言う。「つまり、人が振り向いた時、ああやって見えるものなんだ。不鮮明にね。だけど、脳みそが絶えず全てを “大丈夫。上手くいっている。世界はカオスじゃない。”って思わせようと変換するんだ。だけど、実際にはそうじゃないんだ!」

彼はそう言って笑い、こう付け足した。「基本的に、僕たちはみんな現実を拒絶しているんだよ。人生は、本当はこのように見えるんだ。」

写真のキャプション

TAMDACHT 11 (2002)
このセルフ・ポートレイトは、モーテンセンがディズニーの『Hidalgo』を撮影していた時に、モロッコの近くにある、Tamdacht という小さな町のはずれで撮影された。今この写真を見ると、その時のことを思い出す、と彼は言う。「それが写真のいいところなんだ。沢山のことを呼び覚ますからね。」

MIYELO 6 (2003)
アメリカン・インディアンが、1890年にウーンデッドニーで虐殺された祖先を追想するために “ゴースト・ダンス” を演じる。

translated by chica (写真のキャプションと表紙についてのみyoyo)