GQ  2004.4 TORn のスキャン
反逆の王

TORnのスキャンより ヴィゴ・モーテンセンには、型にはまったところがまったくない — 物静かで全力を投じているキャリアにも、彼が描く絵にも、そして間違いなく彼の世界観にも。クリス・ヒースは、この少しだけ風変わりな『オーシャン・オブ・ファイヤー』のスターに同乗した。ヴィゴは、ファンからの賞賛をかわし、右翼の敵とにらみ合い、東ドイツの水泳チームへの欲望を説明する。

Photographs By Michael Thompson

“偉大な力には偉大な責任がともなう” とはよく言われることだ。しかし、“偉大な成功には、何ヶ月にも渡るうっとうしい義務がつきまとい、本当に頭を混乱させる” ということは、誰も言ってあげないようだ。ヴィゴ・モーテンセンは、1人になる時間を大切にし、必要とする人間だ。最近、その時間をとれずに、彼は苦しんでいる。「70歳か80歳の人のように、物忘れをするんだ。」と、彼は言う。そして、ついに先週、それは大打撃をもたらした。とても残酷なかたちで。

いつもどおり急いでいたヴィゴは、5分間だけ車を道にとめておいた。戻ってくると、車の窓が割られていた。最初、彼はラッキーだと思った。コンピューターは取られていなかったし、お金も取られていなかった... しかし、リュックサックが消えていた。彼は、この3年間に書いたものをちょうどかき集めたところだった。たくさんのショートストーリーに、約75の詩。多くは、最新作『オーシャン・オブ・ファイヤー』の撮影中に、サハラ砂漠のトレーラーで1人きりになり、夜、手書きで書いたものだ。それがすべて消えた。

コピーはなかった。

来る晩も来る晩も、彼は捨てられた言葉が見つかるのでは、という望みを持って、その周辺を探した。しかし、見つからなかった。彼は眠りにつくことができなかった。詩は閃光のように頭をよぎり、一瞬だけ断片を思い出す。しかし、それは彼が永久に失ってしまったものを、ただあざけるだけである。「“自分にとって重要なことに注意を払っていない” と痛感した」と彼は言う。「その兆候だよ。」

ここしばらくの間、ヴィゴ・モーテンセンは、これはもう手に負えないと思うようになっていた。彼がやりたいと思っていたことであろうが、彼が意図していたことであろうが、こんなはずではなかった。彼は、インタビューにプロモーションと、何ヶ月もぶっ続けで話ばかりしてきた。『ロード・オブ・ザ・リング』の3作目『王の帰還』の需要が後退すれば、『オーシャン・オブ・ファイヤー』が入ってくる。彼は、もう数ヶ月これをやらないといけないのだ。私が会話をしたヴィゴ・モーテンセンは、とても気をつかう、思慮深い男だった。しかし、その奥には、彼にのしかかる歪みが永遠にただよっていた。1月のある日曜の夕方、田舎での数時間をやっと手に入れた後、ロサンゼルスに戻る途中の彼と電話で話した。彼はほとんど笑わなかった。

「僕の人生は、4月の終わりまで完璧にめちゃめちゃだよ。」 彼は絶望する。「そりゃ、今日は砂漠をドライブして、少し馬とも一緒にいられたから良かったよ。だけど、自分に数時間をあげるために、2日間分をカンペキに台無しにしたんだ。くだらないことばかりだよ、本当に。そうなりつつあるんだ。誰も責められないさ。こんな映画をやるって言ったのは、他でもない自分なんだから。それで今になって、その代償を払うハメになってしまった。もし好きに選べるのであれば、これ以上はどんな映画もやらないよ。正直言うとね。少なくとも今はそう思っている。」

P155の写真
モーテンセン家の兄弟。左から、ウォルター、チャールズ、ヴィゴ。
1970年、アルゼンチンにて、意気揚々と。

私たちが初めて会ったのは、ロサンゼルスにある彼のお気に入りのエンパナーダ・レストランでのランチだった。彼は小脇にたくさんの物を抱えて、粋なスタイルで入ってきた。彼が応援するアルゼンチンのサッカーチーム、サン・ロレンソのスカーフに(店のオーナー用)、写真集やアート本や詩集の束(私用)、彼が伝統的な飲み方で飲む、古い銀色のチューブがささったマテ茶の入った小さな丸いボールに(彼用)、コルク栓が口の途中まで入った、少しだけ飲んだ形跡のあるアルゼンチンワインのボトル(彼と私用)。彼はいろいろなエンパナーダを注文し、熱心に中身を説明しながらそれぞれをシェアした。アルゼンチンは彼の話の中で重要な役割を果たす。話は簡潔には収まらないので、おそらくこうして始めるのがベストだろう。

ヴィゴ・モーテンセンのアメリカ人の母親とデンマーク人の父親は、ノルウェーでスキーをしている時に出会った。彼の母親は、ノルウェーのアメリカ大使館で働いていた。3人兄弟の長男であるヴィゴは、1958年にニューヨークで生まれた。そして、父親の名前を与えられた。ヴィゴという名前は、現代のデンマークの若い男性にしては、いささか古風でエキセントリックだと彼は言う。「ハーバート(Herbert)とか、オスカー(Oscar)といった名前みたいなものだよ。」

ヴィゴがまだ赤ん坊の頃、一家は南アメリカに引っ越した。1年をベネズエラで過ごしたが、ほとんどはアルゼンチンを基盤にした。父はそこで、作物が育ち家畜が放牧されている農場の経営など、様々な仕事をした。ヴィゴはそこで乗馬をおぼえた。幼少の頃、彼はコミック・ブックが大好きで、冒険小説やヴァイキングの物語、探検家に夢中だった。もしサッカー選手になるのでなければ、ガウチョ(訳注:南米のカウボーイ)になりたいと思っていた。「カウボーイのことなら何でも好きだったな。」 彼は昔を思い出す。「自分のことは何でも自分でして、自給自足で生活する。ベルトの後ろにナイフを刺してね。」

彼にとって、最新作『オーシャン・オブ・ファイヤー』の魅力の1つはそこにあった。この話は純粋なアドベンチャーであり、マスタングに乗ってアラブの最も有名なレースに出場するよう招待された、アメリカ人の長距離レーサー、フランク・ホプキンスの物語である。ヴィゴが子供の頃に大好きだった、古典的な要素がたくさん含まれている。勝ち目のない者、過去に何かを失い、将来それを贖おうと願う人、見知らぬ土地での勇敢な旅、予期せぬ障害に直面すること。この映画はまた、彼が子供の頃おぼえた乗馬のスキルを使うチャンスであった。

しかし、一家がアルゼンチンを離れてからは、ヴィゴはめったに馬に乗ることはなかった。彼が10歳の時のある夜、母は彼にこう告げた。母と父は別れることになると。「離れることになった日のことを、とてもはっきりと覚えている。」と、彼は言う。「とにかくひどかった。そんなふうにする必要はないのに。でも、そうだった。ふるまいも、言葉も。残念なことだよ。」 彼と兄弟たちは、1969年に、ウッドストックと月面着陸の余波から立ち直ろうとしている国のニューヨーク州北部に上陸した。彼が再び父の姿を見ることになるのは、数ヶ月先のことであった。

80年代後半にかけて、ヴィゴはXのシンガーであるエクシーン・セルヴェンカと結婚し、息子ヘンリーを持った。2人は『TVサルベーション!』という、ひどいテレビ宣教師の風刺映画で出会った。数年後に2人は別れることになるが、ヴィゴは自分の子供時代のことを非常に意識していた。「そのことがすごく気になったよ。」と、彼は言う。「昔を思い出したんだ。」 そして彼は、結婚は失敗に終わったが、ほかのことは同じ道をたどらせないと決意した。「僕たちの関係は良好だし、友人でもある。」 そう彼は言う。「ヘンリーにとって良いことだよ。」 ヘンリーは、父親と暮らすこともあるし、母親と暮らすこともある。「それに、自分たちにとっても良いことなんだ。」

ヴィゴと電話で話をする時、その会話のバックには、たいていヘンリーが存在する。彼は、父の車の後部座席でベースを練習していたり(彼は、ヴィゴとバケットヘッドの最新アルバム『Pandemoniumfromamerica』で演奏している)、スケジュールについて相談されたり、父親に携帯電話の使い方をアドヴァイスしてあげたりしている。ヘンリーの服を洗おうとポケットを空にする時、ヴィゴは息子のイマジネーションの残がいを発見するのに慣れた。石ころや、瓶のキャップ。父親のようだ、とヴィゴは認める。ヴィゴはいつも石ころを集めている。ホテルの部屋に30も40も石を集めて、家に持って帰るほど特別な石を1つか2つだけ選ばないといけない時のジレンマを私に語る。あたかも、それがどのゲストもチェックアウト前に決まって直面する悩みであるかのように。ほんの2日前、トパンガキャニオンの道端で、彼は特別に興味深い小さな石を見つけた。それは、たった1つの小さなくぼみを除けば、ほぼ完璧に丸かった。その石は今、彼の家の裏口の外に座っている。そして、他の選ばれた石たちは、彼の家を散らかしている。もう何個かのお気に入りの石は、壁に立てかけてあるアラゴルンの剣の隣の、キッチンのコーナーにいる。

translated by yoyo

TORnのスキャンより TORnのスキャンより

すでに撮影段階に達していた『ロード・オブ・ザ・リング』のアラゴルン役を、当初から決まっていたスチュアート・タウンゼントが降板し、ヴィゴ・モーテンセンが引き受けたいきさつや、息子が熱心なトールキンファンだったおかげで、台本も原作も読んだことがなかった彼が、1年以上に亘るニュージーランドでの撮影に臨まなければならなかった事などは、くり返し語られてきた。

この俳優に演じる気を起こさせたものは、演じて来た多くの役柄に表れている。『オーシャン・オブ・ファイヤー』も例外ではない。そう、窮地に追い込まれる役である。「窮地に追い込まれるって、マイナスのイメージだよね」と彼は語る。「しかし、殆どの場合、積極的なことなのだと僕は考えている。窮地に追い込まれるということは試練の時だと考えられる。長くつらい旅に挑戦することなのだ。散歩でも旅行でも一人で出かけるような場合、自分だけの力でどれだけのことがやれるかを確かめているような時には、余分なものは削ぎ落とされてしまうものだということを僕は強く感じている。ひとつひとつのものの本質が見えてくる。その時期が短くても長くても、それまで以上に人生を分からせてくれるし、もっと純粋なものにしてくれる。」

『ロード・オブ・ザ・リング』で彼が経験したこと、例えば、平気で戸外で寝たとか、戦闘シーンで歯を折った時には歯医者へ行くよりも接着剤でくっつけて欲しいと言ったなどということは、好意を持って書かれてきている。しかし本人がさり気なく言うように、誇張されたヒーロー伝説のように伝わっているのだろう。ところが、そんなエピソードとは全く違った一面も、彼は持ち合わせているようだ。映画のセットで、ゴンドールの王様であった彼は、あるメイクアップ用トレイラーの王様でもあったようだ。そのトレイラーは、ヴィゴが「Cuntebago:cuntをつけよう」(訳注:cuntは女性器)と命名した、とんでもない騒動の王国と化していた。その頃は、映画が撮影されている裏側は、しっちゃかめっちゃかで、cuntという言葉に取り付かれたようになっていた。ありとあらゆる場面で頻繁に使い過ぎたので、仲間内ではキャストもスタッフも、その言葉の持つ本来の侮辱的な意味はもうすっかりなくなってしまったと思っていた。彼は楽しそうに思い出を語る。「何もかもがcuntを持っていたんだ。『cunt これ』『cunt あれ』と言った具合にね。cuntだらけの木があったり、cuntだらけの天使がいたんだ。」

3部作が世に出た時、観客の多くが注目した彼は、こんな側面があることを微塵も感じさせなかった。冷静沈着で、神秘的で、うっとりさせられるようなアラゴルン像を引き出してくれた彼への賞賛の真っ只中で、多くの人々の性的な対象となっていった。彼は、まるでアラゴルンのような口調で語る。「そのことなら、もう過ぎ去ったよ。そうした人達は、違う対象に向かっているよ。」(もしあなたがヴィゴ・モーテンセンのこの種の話しにこそ興味があるのなら、ここでの打ち切りを許して欲しい。その代わりに『オーバー・ザ・ムーン』では滝の中で、ダイアン・レインを夢中にさせる時、素っ裸のおしりを拝むことができることを伝えておこう。また、『インディアン・ランナー』では、裸でベッドに立つ時、彼のペニスを見ることができる。さあ、今すぐにでもどうぞ。)

子どもの頃、ヴィゴ・モーテンセンは奇妙なことに『負傷すること』に興味を持っていた。寝る前のお話しの代わりに、母親に、お母さんの家族に誰か怪我をした人がいたら、お話ししてと頼んだ。母親が負傷した親類の話しを全て話してしまうと、今度はお母さんの知っている人で、怪我をした人のことを話してよと頼むのだった。それも終わると、母親がただ読んだだけの負傷者の話しでさえも聞きたがった。彼は思い出を語る。「家族の一人が泳いでいる時に、誤ってボートのスクリューに近づき過ぎてしまった。僕はいつもそのことを思う」

しかし、彼もまた自分自身が何度も負傷することとなった。例えば、両足を2度骨折している。サッカーをしていた時、スキーをしていた時、そしてデンマークの精錬所で働いていた時に事故にも合っている。だが、彼が負った傷の中で最も顕著な証拠は、鼻から唇、左側の上唇へ達する傷である。彼は17歳だった。セント・ローレンス大学で、ハロウィーンで酔っ払っていた。「よくあるようなことだったんだ」と彼は言う。「まぁ、おどけていただけなんだ」「僕はパーティーをした家から鹿皮の敷物を持ち出して来て握っていた。それに、多分、ビールも持っていたと思う。6本入りパックぐらい。そう半ダース入り1ケースだったと思う。もう、とにかくお祭り騒ぎをしていた。それから藪を走りぬけて、追いかけられていた。そして、有刺鉄線の塀に突っ込んで行った。本当、バカだった。なんか凄いことをしたなんてことじゃないんだ。見るも哀れな結果だよ」

有刺鉄線が刺さった時、彼の唇には、細い皮膜がくっついていた。友達が病院に運んでくれた時、医者はヴィゴの泥酔ぶりに、麻酔が要らないと思ったほどだった。彼のその時の有様といったら…。ハロウィーンのために、彼は『Aladdin Sane』のカバーのデヴィド・ボウイと同じように変装していた。赤と青の稲妻を顔の中央に走らせるように描いていたのだが、その稲妻が有刺鉄線に傷められてしまっていた。「まったく、見るも哀れさ」と彼は言う。「血だらけの汚れた稲妻になってしまったよ」

ヴィゴの映画俳優としてのキャリアの初期には、出演できそうでいて、なかなかデビューにこぎつけなかったという特徴がある。『グレイストーク:ターザンの伝説』のスクリーンテストを受けるために彼はイギリスに行った。ターザン役であった。「腰布を着けて、木の枝に腰掛けて、サルの真似をしたんだ」自分はこの役を演じることになるのだと思って帰って来た。が、それは実現しなかった。

ところが、ジョナサン・デミの『スイング・シフト』で、彼はキャスティングされることになった。小生意気な若い水兵の役だ。映画館で、傷心のゴールディー・ホーンにちょっかいを出す演技をした。上手く行ったと思った。が、できあがった映画を観ると、ゴールディー・ホーンが1人だけのシーンに撮り直されていたのだった。

前進あるのみだった。次に、ウッディ・アレンの『カイロの紫のバラ』で、かけだしの若手映画俳優の役にありついた。時代設定は30年代。ハリウッドのパーティーで、他の俳優と会話を交わす役だ。ウッディ・アレンはヴィゴの相手役に小声で何やら指示を出してから、「本番」と言った。

「あの、僕は何をすればよいんでしょうか」とヴィゴは当時の口調で語る。「僕にはどのように演じて欲しいのでしょうか」

「君のしたいようにすれば良いよ」とアレンは答えた。「相手役に合わせてくれれば良いよ」

相手役はヴィゴに、近ごろどうだいと、話しかけてきた。

「僕は、それに対して、こんなジョークを飛ばしたんだ」と彼は話す。「『この映画に出演していたんだ。すごいヒット作だよ。セシル・B・デミルの作品さ』すると、彼がこう言ってきた。『君の役は何なの?』そこで、僕はこう返した。『この男の役だよ。こんな風にあごひげがあって、十字架にかけられていて、こんな演技で…』相手役はなんだか冴えない反応だったよ。演じた役がキリストだってことが分からないみたいだった」(話しをはっきりさせるために僕はここで質問をする。「話しを簡単に整理してみよう。あなたが初出演を果たそうとした中には、ウッディ・アレンの映画があったんだね。その映画であなたはジョークを飛ばそうと考えたんだね」「だって、彼が何でも良いって言ったんだよ」ヴィゴは肩をすくめて、笑う。)

ウッディ・アレンは面白がってくれたようだった。そこで、ヴィゴは家族に、この映画が公開されたら観に行けば、映画の中の息子に会えるよと伝えておいた。そこで、家族は映画を観に出かけて行った。しかし戻って来て報告された。「出てなかったよ」と。

さらに悲惨なことも待ちうけていた。オリバー・ストーンが製作に取りかかる戦争映画の中で軍曹役にヴィゴをキャスティングしたのだ。『プラトーン』である。ところが資金繰りが上手く行かなくなってしまった。しかし、ヴィゴには映画は必ず撮ることになると伝えられた。そこで、彼は俳優としてできる限りの準備をして待つことにした。翌年には、ベトナムに関する本を入手できる限り全て読んだ。 「もう、これ以上できないっていうくらい役のための準備をした」と彼は述懐する。「心理的なものも、その他のことに関しても。肉体的なことも」

ある日、映画がプロダクションの手に移ることになり、オリバー・ストーンはヴィゴが演じるはずだった役に他の役者を起用したと聞かされた。彼の役はウィレム・デフォーが演じることになったと。10年ほどして、ヴィゴはストーンと再び会うことになった。監督がマヌエル・ノリエガを題材とした映画を撮ろうとしていた時であった。

「初めまして」と監督は言った。ヴィゴは、数回会っていることを伝えた。(彼はストーン監督のスペイン映画『サルバドール』のオーディションも受けていた)

「監督は僕のことなんて、これっぽっちも覚えていなかったみたいだった」とヴィゴは当時を振り返る。「もう、凄くショックだった。だって、本当に真剣な気持ちで受けたんだから」

失意と悲嘆にくれながらも、徐々にではあるが、彼のキャリアは積み上げられていった。先ず、『目撃者』でのちょい役が初出演である。ケリー・マクギリスとの結婚を望む男の弟を演じた。6週間の撮影の間、カメラの前にいる時間はほんの僅かではあったが、ペンシルバニア州ランカスター郡周囲のサイクリングを楽しむことができた。この経験から、彼はでき上がった作品よりも、映画の役を通して体験できることの方に大きな興味を持つようになった。

困難な時期が続いたが、彼のやり方は賢かったかもしれない。しばらくの間、彼は粗暴でワルの役を演じる俳優だと決めつけられてしまったようだった。レニン・ハーリンのどうってことない心理ドラマ『プリズン』での執念深い囚人;『悪魔のいけにえ3/レザーフェイス逆襲』での、嬉々として殺人を犯す常軌を逸した家族のひとり;モリー・リングウォルドとアンドリュー・マッカーシーで10代の終わりを描いた『想い出のジュエル』での、不運のヒロインのいやらしい年上の夫などを演じた。(ヴィゴ・モーテンセンはほんの僅か顔を出すだけである。それでも、80年代の清らかなモリー・リングウォルドをおびえさせているし、『マイアミ・バイス』の中では、吹っ飛ばされてもいる。)

『想い出のジュエル』は、結果的には、ショーン・ペンがヴィゴに着目し、自身の初めての脚本・監督作品『インディアン・ランナー』で、心が荒れている弟役に彼を起用した作品となったと言われている。この作品で、初めて、ヴィゴは多くの人々に認められることとなった。それ以降、本領が発揮されたもの、そうでもないものなど多くの映画に彼は出演してきた。その中で本人が満足していると言う役柄は以下のとおりである。『ある貴婦人の肖像』でのニコール・キッドマンにつきまとう求婚者;『カリートの道』での車イス生活を余儀なくされ、鼻をすすっている元囚人;フィリップ・リドリーの心に残る2つの寓話、『柔らかい殻』と『聖なる狂気』のそれぞれの役;『La Pistola de Mi Hermano』でのスペイン語を話すちょい役;『オーバー・ザ・ムーン』での、陽気で魅惑的な洋服売り;『G・I ジェー』でのデミ・ムーアを扱く、口ひげをたくわえた厳しい海軍のマスターチーフ;『ゴッドアーミー/悪の天使』での、出演時間こそ少ないものの心臓を食いちぎるサタン役;そして、彼の最新作ということになる。「僕が面白いと思うのはアラゴルンのような面を持っている役なんだ」と彼は語る。「『オーシャン・オブ・ファイヤー』でも、そうだと思うんだ」

だが、必ずしも自分が納得できる役だけを選んで演じることができたわけではなかった。彼は率直に言う。「つまり、どうってことのない映画にいっぱい出てきた俳優ってことだね」何年間も、彼にとっては同じことの繰り返しが続いた。自分自身が楽しめて、喜んで応じたくなるような特別の作品を待って待って待ち続けた。しかし、望むものが何も来ないまま、金銭が底をついてしまうと、何の役であれ、引き受けることとなってしまっていた。

ある日、ヴィゴと私は、車で高速道路を走っていた。私は彼に女性についての質問を向けてみた。すると、彼の方が私に聞く。「10代の頃、女の子を好きになったり、デートしている時、その子と一緒になることを、知らず知らずのうちに、思ってしまうことってあった?そんなロマンチックなことを夢見た?」ヴィゴは「僕はそうだった」と言う。「すごくね。ほとんどいつも思っていた」

肉体的な方はどうだったのかと聞いてみる。彼は思い返す。「僕はすごく試してみたかった」「ホント、若かったんだ。若すぎたんだ」

初体験の時のこと?

「まぁ、試した程度だけど」

若すぎるって、いくつぐらい?

「分からないけれど、なんとなく、そう思ったんだ」

まさか、法律にひっかかるほど幼いってこと?

「法律より前って、そうか、そんな言い方をすると、そうだね。でも、そんなたいしたことじゃないけどね」

彼は話題を変える。

「高校生の時、東ドイツの水泳選手達を、なんて魅力的なんだろうと思っていたことを覚えているよ」と彼は言う。「とっても」僕がこの話しに少し興味を持ったことが分かると、彼は続ける。「みんなって訳ではないよ。多分、彼女達が身につけていた最新のライクラ素材の水着のせいだと思うんだ。覚えてない? つまり、異性に関心を持つ男の子にとって思春期によくあることだと思うんだ。それまで同じような水着を着ていた女性を見ていたんだ。突然ある時、東ドイツの選手達がとっても透ける水着を着ていたってことなんだ。彼女達の何人かの名前を覚えている? 僕はひとり、覚えているよ」ひとつの名前が彼の舌で転がされて、こぼれ落ちる。半ば追いやられた記憶をたぐり寄せるように「コーネリア・エンダー」と彼は言う。

昨年、『ロード・オブ・ザ・リング』のキャストと映画会社ニューラインシネマとの間に、やっかいな争いが生じた。1部と2部、それぞれの映画が爆発的ヒットを飛ばした中で、俳優達が強いられた数ヶ月のプロモーションに対する報酬が特に問題となった。ヴィゴはキャスト達が団結するようにし、全キャストが揃って支払いを受け取ることができるように、団体交渉の先頭に立った。もっとも、彼自身は、この件に関して彼がとったリーダーシップ的役割について多くを語りたがらない。「僕が何をしたかなんて分からないよ」と彼は居心地が悪そうに話す。「みんながコミュニケーションを取りやすくなるようにしたんだ。僕がしたこともあるし、他の人の時もあったんだよ」(彼はニューラインに、もうこの問題を長引かせないようにと説得しただけのことだと述べ、最終的には「会社側は気持ち良く払ったよ」と言う。)

イライジャ・ウッドは、この辺りをもう少し詳しく話してくれる。彼は、ニュージーランドで、ヴィゴがどのように「僕達の目にはアラゴルンに映った」のか、彼の接し方やマナーが、いかに彼らの心を奪ってしまったのかを話してくれる。「とってもおもしろいよね。だって、ヴィゴ本人は、あんなに謙虚なのに…。僕達は彼をまるで僕達の王様だと思って見ていたんだ。でも彼は自分のことを全然そんな風には思っていないんじゃないかな。彼のリーダーシップは完璧なんだ。しかも、本人はリーダーシップをとってやろうなんてつもりがないんだ。それって彼が周りの人みんなに気を配っていることの表れだと思う」

ウッドは言う。「僕達の交渉は団体として努力したことだった。だけど確かに、それは… 僕はヴィゴが僕達を導いたとは言わないよ。だって、彼はそんなことを言われるのを嫌がると思うから。彼って、そう言われることが本当に大嫌いなんだ。でも、僕達はあの場で彼を尊敬していた。いつものようにね」団結し団体として解決することを要求することによって、ヴィゴは(ウッドと共に)作品の主要俳優の割には、個人的には少なめの解決を選んだと指摘する。「僕達は確かに犠牲を払った」とウッドは言う。「だけど、そんなことたいしたことではないんだ。なぜなら、他のみんなが、当然の待遇を受けることができるようになったんだ。そして、そういう事こそ、ヴィゴが大事にしていることだし、他のみんなにも良いことなんだ」

ウッドは、いろいろな例を挙げては、しばらくの間、ヴィゴに賞賛を送る。それから、彼の仲間であるヴィゴの複雑なキャラクターが充分に伝わっていないのではないかと思って、途中で言葉を切った。「ここで話していることは、どんなに彼が高潔であるか、どんなに彼が才気に溢れているかということなんだ」とウッドは言う。「だけど、信じられないくらい突拍子もないところもあるんだよ」

ヴィゴは生活の中で、厳しい試練や自分では気が付かないうちに陥っていた事や不測の出来事を経験した後にやって来る、とっておきの短い時間を求めている。「そういう時間というのは、自分がそこにいることが正しいと思えて、何もそれ以上説明しなくても良い時間なんだ。そう、そこにいるだけで良いんだ。僕が言いたいのは、そうなれる場所というのはほんの身近にあるっていうことなんだ」彼は自分の考えを述べる。「たとえば、こうしてただ座って、縁石を眺めている。すると、突然、それが世界の全てになるんだ。上手に使えば、5分間は永遠になると思う。そういった特別に素晴らしいものが詰まった時間は、どこにでもあるんだ。サウスダコタの猛吹雪の中を進まなくても、ニュージーランドの熱帯雨林の中にいなくても、サハラの真ん中にいなくてもね。街を歩いていても見つけられる。部屋の中に人がいっぱい集まっている時にも見つけられる。こういうような取材中にもね。質問に答え、座って相手を見て、敷物の色が青いなとか黄色だなとか…そのうち、そんな時がやって来ると、もう、僕が答えようとしていることなんか神のみぞ知るって感じ。でも本当のところ、僕自身は全然気にならなくなってしまうんだ」

ある日、美しい場所を知っているから、そこに一緒に行こうとヴィゴは言う。パサデナにあるハンティントン植物園だと言う。彼は、何種類かの散らかっていたCDやヘンリーの装飾用短剣を片付けて、私を助手席に座らせてくれる。駐車してから初めて、私は、後部窓の近くの棚に大人用のフェンシング用サーベルが置かれているのに気がつく。

私達は、桜の花が咲き誇る日本庭園に向かって、ゆっくりと歩く。それから草が生い茂った小高い場所に腰を降ろす。いつでもどこでも、ヴィゴはできる限り靴を履かないことにしている。ふと、彼は、卵型をした禿げ頭に白髪が少し垂れている男性が、本人よりは若い女性2人と歩いているのを遠くに見つける。

「あの人は、アーサー・ミラ−かな?」と彼は小声で言う。「彼の顔が分かるまで待っていようよ」

私達は目を凝らす。しかし、彼の顔が判明する前に、私達が知っているアーサー・ミラーの歩き方ではないことが分かってしまった。女性達もアーサー・ミラーが一緒に日本庭園を歩く人達ではなさそうだ。

「ねえ、そうだったってことにしようよ」と、ヴィゴに言われる。少し間を置いてから、彼がこのことについてウソを言おうと持ちかけていることが、私にも分かる。そうと決めたら、想像力を働かせるために、遠くにいる人物をはっきりと確かめてから、違うねと×点をつけるようなことは、もうしなくても良い。私達は、ちょっぴりがっかりした気持ちを先の方に追いやって、今は、この公園で、アーサー・ミラーと、もう少し一緒に過ごすことにしよう。

サンタモニカにあるミッドナイト・スペシャル書店では、『Twilight of Empire: Responses to Occupation』の一連の朗読会のひとつが開催されている。ヴィゴは最後に登場し、宣伝もしないのに多くの人を惹きつけている。この本は戦後イラクのレポートや写真の詰まった概論で、ヴィゴ自身の出版社パーシバル・プレスから出版されている。彼は簡潔に話す。『ブッシュ−チェニー軍事政府』などという彼の見解を述べながら。それから2003年に書き上げた『Back to Babylon』という詩を読む。彼の朗読はソフトではあるが確信に満ちたものであり、会場の高まりに比較して、低い声である。

「我々は、間違った亡霊を作っている。いつかは我々もまた、消えていくということさえ、知ろうともせず信じようともせずに…」

彼が読み終えると、感謝の意を表して、熱心で真剣な拍手が起こるが、決して騒々しいものではない。聴衆はセレブが開いた催しの成功に対する賞賛以上に、この催しの真摯な主旨に対して深く胸を打たれていることを、お互いに表明しあっているかのように、私には思える。

ヴィゴは、ライトブルーの糸で、国連のマークのパッチを自分で縫い付けた、グリーンのジャケットを着ている。「私はこの2つの言葉が大好きです」彼はこの洋服を選んだ理由を説明しながら、聴衆に話す。「united(連合)とnations(国々)。一緒になって、お互いに上手くやっていけると思っています。離れ離れよりも、ずっと良い」笑い声が起こる。

こういう時間は、反体制的意見を述べようとする者にとっては、誰であれ、厳しい判断を下される時間であろう。殊に、俳優として知れらている者にとっては、なおさらである。(最近、加熱気味のセレブリティー・カルチャーによって催される素晴らしく洗練された反体制的主張のひとつは、何はともあれエンターテイナーは賞賛されるが、一方で、無知であるがゆえに尊大な態度になるとみなされることが多い。)私とのインタビューの内容として、ヴィゴは彼の政治的意見を自分から持ち出すようなことを一切しない。— 私達がそのような話しをする時は、全て、私の方から持ちかけている。しかも、彼は今日のイベントに私を誘いもしなかった。— が、彼が政治的関心を持っていることは明らかである。2002年の冬、彼はイラクを訪れる計画だった。写真を撮り、自分自身の目で確かめたかった。しかし、映画や家族との生活で精一杯で、彼にはそうする時間が持てなかった。

その週の初め、彼は『USA Today』の論説で、保守派の映画評論家Michael Medved の『Actor's Politics Pollute Ring(「リング」を台無しにしている俳優の政治的発言)』という記事で、槍玉に挙げられた。Medvedは、ヴィゴが自分の役を利用して「反戦と反ブッシュ批判の声を上げていることにより」、映画の純粋なエンターテインメント性を台無しにしてしまったと論じている。『平和主義気取り』とヴィゴをみなすのは、彼が多くのインタビューに『NO MORE BLOOD FOR OIL』と書かれたティーシャツを着て臨み、ワシントン,D.C.で行われた反戦集会に参加したことを挙げている。反戦集会では、爆弾が爆発し、肉が燃え、民家が倒され、アメリカが犯した罪などが、だらだらと書かれた自作の詩を読んだと述べている。(このことについては、たった今、ヴィゴが読んだ詩の解釈としては、ばかげているとしか言いようが無いほど、真意を把握していない)

ヴィゴは、反戦集会に参加したことと自分が映画俳優であることは、全く関係の無いことで、自分はそれらを結び付けてはいないと反論する。皮肉にも、映画関連の最近のイベントで意図的に政治色を持ち出した場合がひとつあると、彼は見解を述べる。それは『NO MORE BLOOD FOR OIL』と手描きしたティーシャツを着てチャーリー・ローズ・ショーに出演したことである。(その日は、他のインタビューもあった。)— 本来、ひとつの考えを押しつけられてはならないはずの映画に、受け入れ難い政治的解釈を押しつける人々に対する彼なりの応じ方であった。彼をそのような気持ちにさせた最も顕著な例は、タイム誌の映画評論、リチャード・コーリスの次のような記事である。

最近の争いとの結びつきは否定し難い。旅の仲間は、イスラム原理主義の狂った徒党によって包囲された西洋民主主義として見ることができる。(サルマンは背が高く、やせていて、顎鬚をたくわえた、リーが演じているが、オサマ・ビン・ラディンにぞっとするほど似ている。)… 「累々たる屍」「このような恐れを知らない憎悪に対して、人は何ができるのか」とセオデンは言う。アラゴルンは答える。「騎馬戦で応じましょう」と。

この記事に激怒したヴィゴはタイム誌に、記事の内容は、思慮が浅く、適切な解釈ではないと考察できる旨の手紙を書いた。タイム誌ではこれを取り上げなかったが、彼の手紙の一部をここに挙げよう。

あなたの直喩は、物事を単純化し、他国の人々を極端に恐れ、尊大な態度で臨む世界観を並べたにすぎません。その世界観こそが、地球上で、頻繁に、アメリカ合衆国政府に対する恐怖と不信感をもたらしているのです。どうか、トールキン自身の言葉について、思いを巡らせてください。「良いことと悪いことが往年と変わることはありません。エルフとドワーフと人間の間でも、何ら変わりはありません。ゴールド・ウッドにいようと、自分の家の中にいようと、そういうことを認識するのは、人間の努めです」

手紙を出してから1年以上が過ぎた。ヴィゴが、彼にとっては粗野で軽蔑すべき最近の攻撃によって、多少なりとも、心をかき乱されているのは、明らかである。「彼が言いたいことは、はっきりしている。『黙れ。やるべきことだけをやっていろ。おまえは俳優だろう。演じていれば良いんだ』ということだよね」

その一方で、どのような烙印を押されても、ヴィゴはそれほど苦にはしていない。「長いこと、こうやって来たんだ」と彼は言う。「映画でも何か他のことでも、僕はこれからも働いてやっていけると思う。そんなことは自分の考えを言うか、言わないかの理由じゃない。自分の意見を言うのは何故か。それは僕が人間だからだ。こんなことを憶えているんだ。ジョイスは彼が生きた時代、生きた場所について意見を述べた。そのことは、確実に僕達が話している時代、話している場所に当てはまるに違いないと言っているんだ。それについてこう言っている。『人間の魂がこの国に生まれた時、飛んで行っても戻って留めておけるように、網がかけられる。民族、言語、宗教という網が。僕はそれらの網を潜り抜けて飛ぼうとするだろう』

ヴィゴ・モーテンセンはTVを持っているが、それはビデオを見るためである。彼はTV番組を全く見ない。現代の大衆文化に彼がどれほど無関心なのかを知るために、私は簡単なテストを行なう。彼は『Simpsons』と『Homer and Bart』という2つの名前を挙げることができた。というのは、10代の息子のコミック誌を読んだことと、元妻の家でたまたまTVをちょっと見たからである。こちらからの質問以外に、『King of the Hill』を彼は挙げる。しかし、『Friends』の登場人物の名を1人も答えられない。

「ブラッド・ピットの奥さんだっていうことは知っているよ」と彼は言う。「彼女の名前は何だっけ?」

ジェニファ−・アニストン。

「そうだったね。僕が言いたいのは、彼女達がよく似ているということは知っているってこと」(彼は私に登場人物の名を知っているかと質問し、私が答えたことに、ちょっと驚いたようだ。それから、ちょっとがっかりしたようでもある。)彼は『The Sopranos』を1話も見ていなかった。良いとも聞いていたし、『クリムゾン・タイド』で共演した時に、ジェイムズ・ガンドルフィーニを高く評価していたにも関らず。

彼が1番最近見た番組は80年代半ばのニューヨークで催されたアカデミー賞授賞式であった。2年間、友達の家へ行き、ピザを食べながら、オスカーを見た。しかし、そのショーに彼は困惑した。彼には良く無いと思える作品がノミネートされ、彼には理解し難い商業上の人気コンテストから、良く無いと思える作品が受賞していることが分かった。その後、そのような賞を取りたいために、自分とは正反対の俳優としての働き方もあることを知り、嫌いにもなった。そういう俳優達の何人かは、自分自身に注意を引きつけようと躍起になっていて、シーンやストーリーやキャラクターを傷つけている。

2年前に、ヴィゴは弟の家で、もう1度、そのセレモニーを少しだけ見たいと思った。しかし、10分後、それ以上見ていられなくなって、キッチンに引っ込んだ。「まったくバカげたことに思えたんだ」と彼は言う。

彼が求める機会や報いは、もっと他の場所にある。求めるものが向こうからやって来なければ、自分から見つけに行くだろう。そしてその中で、それらを彼にとって価値ある物とする試練を見つけるだろう。そういうことこそ、まさに、ヴィゴ・モーテンセンが持っている多くの様々な才能に加えられるべき、もうひとつの才能なのである。

「どんなに単純な仕事でも」と、彼は皮肉っぽく言う。「僕は、いつだって、それを試練に変えているんだ」

参考:
CHRIS HEATHは、GQの編集記者です。これは彼の初めての本誌記事です。

translated by Peace