The Philippine Star  2004.9.24
おのれ自身に忠実であれ

By Wilnar Iglesia

映画『ヒダルゴ』は、ストーリーは平凡で新鮮味に欠けるが、そのメッセージと根底にある意味は、暖かく非常に深遠である。この作品から学んだことは、私という人間を大きく変えるほど貴重なものであった。これは、魂の迷える一人の男と見下された一頭の馬の感動的な旅の映画である。

ヴィゴ・モーテンセン演じるフランク・ホプキンスは、シニカルなカウボーイで、生涯で最も格式高く厳正な馬のレース、すなわち、乾いて危険に満ちたアラビア砂漠を横断する3千マイルレースに招待される。敵は灼熱と砂嵐と極度の脱水症状と思っていた彼は、数々の陰謀と災難に襲われ、愛馬のみならず自らの命も危うくなる。もちろん、主役の彼が最後には勝利し、いわゆるハッピーエンドとなる。

だが、こうした単純なストーリーの根底に、私の人格を向上させ、私の人生の考え方を変えた一つの教訓がある。映画では、馬は血統がものを言い、フランクの馬ヒダルゴは人から相手にされない。レースに勝つのは不可能だと思われ、しばしば嘲笑され、強敵ともみなされない。

ある意味、これは、人種差別や性差別といった、我々の社会を腐敗させている昔からの問題を反映している。黒人というだけで白人の奴隷と見なされ、男性というだけで女性よりすぐれていると見なされる。こういう浅薄な偏見は、劣ると見なされた人々に対する高飛車な態度や恐怖心につながっていく。

映画では、フランクは、自分のルーツを恐れ恥じている。アメリカインディアンの血が自分に流れていることをひたすら隠そうとする。彼は、他人の目に立派に映る面だけを見せようとする。

そういう行為で思い出すのは、田舎者と呼ばれることを恐れる人々である。彼らは、派手で魅力的な都会のライフスタイルを真似ることで、一つの仮面を作り上げている。

同様に思い出されるのは、古い考えの親と一緒のところを人に見られて恥ずかしいと思う人たちである。また、自分がフィリピン人であることを嫌悪し、自国の物より外国の物を大切にする人たちである。

『ヒダルゴ』は、ナショナリズムの感覚が、残念ながら予想通り急速に失われつつあるフィリピン人一人一人にふさわしい映画である。今日の我々の文化には、過去の我が英雄たちの勇気ではなく、我々の人格を蝕み、我々のアイデンティティーを消し去る植民地の考え方が表れている。

この映画は、愛国主義そのものをロマンチックに描くのではなく、一人一人が誇りを持つべきだということを我々に見せてくれる。この映画は、我々が国民としてのアイデンティティーとルーツを誇りに思うことを促している。これこそ、ユニークな国民としての意識と世界の一員としての意識の両方を高めてくれる特別な要素なのだ。我々は自分以外の誰かを装ってはいけない。我々が誰であるかを知る方法はそれしかないのだから。

translated by estel