Entertainment Weekly  2005.8.19
ヒストリー・ティーチャー

中つ国を確実に過去のものとしたヴィゴ・モーテンセンは、これからはインディーアート、父と子の絆、そして、「暴力の歴史」の学習に目を向ける

By Missy Schwartz

デイヴィッド・クローネンバーグのスリラー『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の撮影中、ヴィゴ・モーテンセンは魚を持ち歩いた。体長12インチ(30センチ)、解剖学的に正確なプラスチック製のマスである。それは映画の小道具で、彼の幼い娘役のために持ち込まれたおもちゃだったが、モーテンセンはそれをふざけた秘密のお守りにすることに決めた。毎日彼はそれを後ろポケットやカウボーイブーツの中やバッグなど、とにかくクローネンバーグの目につかない所に忍ばせた。「しばらくすると、それはもう強迫観念のようになっていた」と、この俳優は説明する。「このマスがないと縁起が悪いような気がしたので、こっそり持ち込んだ。このまま最後まで隠し通せるか、というゲームになったんだ。」 彼は隠し通した。撮影最終日までは。この日、彼の「ヒレのある友人」は落っこちてしまった。撮影中に。モーテンセンは、いたずらっぽくちょっぴり誇らしげにこう言う。「デイヴィッドはそれを見て、“唖然” としていたよ。」

ヴィゴ・モーテンセンの静かなるエキセントリックな世界へようこそ。彼は英国の哲学者とアダム・サンドラーを同等に引用する男。自作の詩、アート作品、音楽を発表する男。そして、史上最大の大作映画に主演した後も、レッドカーペットの上を気取って歩くより、土の上を裸足で歩く方がすっと落ち着くと感じる男なのである。『ロード〜』三部作のアラゴルン役は彼を世界的なスターにしたが、彼はその人気を利用してアイドル路線を歩もうとすることに抵抗してきた。「特にこれという目標を決めているわけじゃないんだ。」 LAの落ち着いたアイリッシュパブで、フィッシュアンドチップスを食べながら、46歳のモーテンセンは言う。「幸せになりたいと思う気持ちや人間関係のことと同じだと思う。計画は立てずにオープンな気持ちでいることで、見つけなければならないものだ。だから、スクリプトを読む。そうすると、たまに何かが起こるんだ。」

『戦慄の絆』や『裸のランチ』の監督から我々が期待するダークユーモアの混じった起伏のあるドラマ『〜バイオレンス』は、モーテンセンの感性のためにあつらえたような作品に思える。「もしディヴィッドがこれを監督していなかったら、やりたかったかどうかわからない」と、主人公トム・ストールを演じる俳優は言う。夫であり父親であるトムの小さな町での生活は、復讐を求めるギャングにより打撃を受ける。「もし他の監督だったら、日常生活に共存する暴力を追求できたかどうかわからない。」 5月のカンヌ映画祭でプレミア上映された時、この作品は熱狂的なスタンディングオベーションを受け、観客はモーテンセンに大きな賞賛を送った。LOTR後に彼が引き受けた最も目立つ作品(それは2004年に高予算で制作され、馬のレースを描いたしらける作品『ヒダルゴ』であろう)ではないが、これは彼のキャリアで最も円熟した作品かもしれない。「彼をスターにしたのが『ロード〜』とは皮肉だね。あれは、彼の最も複雑でない役だから」と、クローネンバーグは言う。主役を選ぶ際、監督には、堂々たる迫力と家庭的なやさしさの両方をトム・ストールに与えられる役者が必要だった。そして、監督に関する限り、モーテンセンこそまさにその人、これで決まり、であった。「ヴィゴは、主役俳優のカリスマ性と、性格俳優のエキセントリックなところと写実的存在感とを兼ね備えている」と、クローネンバーグは言う。「彼は僕の好きなタイプの役者だ。」

モーテンセンはゆっくりとやさしく話す。質問に答える時は、考え込みながら、「思うに」とか「ウーン」という言葉を多用し、時間をかけて答える。控えめで気取らず、『指輪』の仲間が「ノー・エゴ・ヴィゴ」とあだ名するこの人は、注目の的になることをあまり好まない。「彼は自分に正直な人間だ」と、『〜バイオレンス』の共演者エド・ハリスは強調する。「それはとても新鮮だ。彼は、彼を何かに奮い立たせようとする人々のプレッシャーを、自分に影響させない。仕事熱心で、とにかく実にいい人間だ。」 このランチの時、モーテンセンは、常に会話を自分のことからそらし、どんな話題にでももっていこうとする。カナダのアイスホッケーのこと(ファンである)、ブッシュ政権のこと(ファンではない)、妻役のマリア・ベロの洗練されたユーモアのセンスのこと(大ファンである)など。その荒々しいハンサムな顔−高い頬骨、淡いブルーの目、がっしりした顎−は、多くのファンサイトの一番の話題となっているが、本人は、クローネンバーグが言うように、「おめでたいほど自分の魅力に気づいていない」のである。自分の肉体のことについて意見を求められると、モーテンセンはただただ当惑しているように見える。「ウーン」と言ってから、こう続ける。「みんなが僕を話題にしている時、そんなことを中心に話したり考えたりしてはいないと思う。」

モーテンセンは、アメリカ人の母とデンマーク人の父(ヴィゴ・シニア)との間の長男として、1958年にマンハッタンで生まれる。2歳から11歳まで、アルゼンチン、ベネズエラ、デンマークで過ごす。11歳の時に両親が離婚。その後、母と二人の弟と共に、ニューヨーク州北部に移る。世界を旅した子供時代は、彼に多言語の才能を与え(彼は、英語、スペイン語、デンマーク語を「ほぼ等しく」話し、さらに5カ国語は「困らない程度に」話せる)、知的渇望、即ち、この世にいる限りできるだけ多くのものをむさぼり吸収したいとう欲求を、彼の中に植え付けた。「それによって僕は、世界というものにより好奇心を抱くようになり、全く同じ状況を色々な方法で見ることに関心を持つようになった」と、彼は説明する。「それは全て、役者に役立つことなんだ。」 たとえば、彼は決して同じ映画を二度観ないようにしている。「アメリカ以外で作られた映画だけ観て一生を過ごしても、全部は観きれないよ」と彼は驚いたように言う。しかし、このルールには少なくとも一つの例外がある。アダム・サンドラーの1996年のコメディー『俺は飛ばし屋/プロゴルファー・ギル』(Happy Gilmore)は、いつ何時でも観る。そのことを述べた途端、彼は自分でサンドラーの真似を始めた。少しも悪くない。彼は言う。「魅力的な映画の一つだよ。」

子供の頃、モーテンセンは、常に何らかの形の芸術表現にくちばしを突っ込んでいた。「たいていの子供がするように、いつも絵を描いていたよ」と、彼は回想する。「10代の頃、写真を撮り始め、ちょっとしたストーリーや詩を書き始めたんだ。」 演劇部に入るのが「きっと恐かったであろう」 シャイな少年だったので、1980年にスペイン文学と政治の学位を取ってセントローレンス大学を卒業するまで、演技のことなど考えもしなかった。その考えが浮かんだ時、それは、野心というより好奇心からだった。「ちょっとやってみたかったんだ」と彼は言い、インスピレーションになったこととして、『ディアハンター』のメリル・ストリープの演技を引き合いに出した。「色々映画を観て、みんなどうやるんだろう、どうやればそんなに信じられるものになるんだろうと思っただけなんだ。どんなトリックなんだ?って。」

80年代の初め、彼はニューヨークでドラマのクラスを受け、まもなく、「いつも断られては挫折すること」に耐えながら、役者になる野心を抱いた生活を始める。彼の最初の役は、ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』とジョナサン・デミの『スウィングシフト』だったが、結局、編集室の床へと消えた。しかし、彼は前進を続け、ピーター・ウィアー監督の1985年のドラマ『刑事ジョンブック/目撃者』で、アーミッシュの農夫の小さな役を獲得する。モーテンセンの出演時間はわずか数分である。そのフレッシュな25歳の顔が、ピクニックのテーブルでハリソン・フォードを品定めするようにながめるのを観て欲しい。しかし、たとえ数分でもそれは、彼にやめずに続けなさいと促す何かを心の中にもたらした。「『目撃者』のオファーがあった同じ日に、パークプロダクションのシェークスピアの仕事の話が入ってきた。『ヘンリー5世』だったと思う」と、彼は回想する。「僕は自分がよく知らないことをやってみる方を選んだが、結局それは正しかった。いいストーリーだったし、ピーター・ウィアーと仕事ができたから。」 「でも、最初の経験がそんな風だったから、僕はスポイルされたのかもしれない」と、彼は認める。

確かに。それ以降の彼の経歴は、日曜の午後のケーブルTVガイドを読んでいるようなものだ。1987年に、テレビ伝道者の風刺『サルベーション』に出演。そこで、その後妻となる、パンクバンドXのボーカル、イクシーン・サーヴェンカと出会う。1988年、彼女との間に息子のヘンリーが生まれる。(二人は後に離婚している。)くだらない作品がさらに続くが(『悪魔のいけにえ3』、『ヤングガン2』)、1991年、ショーン・ペンが、彼の監督デビュー作品『インディアンランナー』で、爆発の危険を秘めたベトナム帰還兵の役にモーテンセンを選んだ。「彼はいつも、見事に仕事に打ち込んでいた。彼は、役のために、文字通り台所の流しまで持ち込んだ」とペンは言う。[訳注:「台所の流し」は「何でもかんでも」という意味のeverything but the kitchen sinkから来ていると思われる。] 彼は、モーテンセンが、自分で選んだ様々な小道具が詰まった「サンタクロースの袋」を持って、毎日セットにやって来るのを見て楽しんだ。「一人でいることが多い、詩人肌のやつだったよ、ヴィゴは。そして、それが全て(映画に)うまく作用したんだ。」 批評家に絶賛されたモーテンセンの演技は、ブライアン・デ・パルマ(『カリートの道』)、ジェーン・カンピオン(『ある貴婦人の肖像』)、リドリー・スコット(『GIジェーン』)のような監督との、さらに印象に残るコラボレーションへとつながる。その後、90年代の終わりには、グウィネス・パルトロウ(『ダイヤルM』)とダイアン・レイン(『オーバーザムーン』)の相手役で、くすぶるような演技を見せた。それでも、確実な仕事の保証はほとんどなかった。「ほぼ40作もの映画に出て、そのほとんどが大成功とは思っていない、なんて言うのは僕が最初かもしれないね」と、彼は認める。「だけどそれを言うなら、僕のキャリアがそれほど特別だとは思わない。ヒット作を信じられないほど連発することのできる役者なんてほとんどいないからね。長い間それで暮らしてこられて僕はラッキーだ。」

モーテンセンは、自分がした作品の選択は、どれも全く後悔はしていない。彼がよくやるように、ポジティブな面に目を向けるようにしている。「僕はどれにも文句は言わないよ。一つ一つの状況に、常に何かいいことはあったから」と、彼は説明する。「おもしろいストーリーを語る一翼を担っていたし−それほどおもしろくないものもあるけど−それに、おもしろい人たちにも大勢出会えたからね。」 『ロード〜』が仕事の上で彼に扉を開いてくれたことに感謝する一方ー結局、メジャーな作品の主役を務めたのは、彼のキャリアでこれが初めてなのだ−レーダーの下で気持ち良く仕事をしてこられた長い年月を、初期の名声をけなすことで台無しにするつもりはない。「そんなことが以前の僕に起こっていたら、どう対処していたかわからない」と彼は言う。「変に注目されることには、今でも十分頭を悩ませているよ。20年前なら、もうたくさんだと思っただろう。」

ランチがとっくに片付けられ、ディナー客がぼちぼち姿を見せ始めると、モーテンセンはブラックコーヒーを注文し、LAでヘンリーとの静かな生活に戻ることをとても楽しみにしていると語る。彼は、スペイン語の歴史映画『アラトリステ』の撮影地マドリッドから戻ったばかりである。この中で彼は、17世紀の「雇われ剣士」で主役を務めている。彼はスペインでもう一つの映画、パス・ベガ主演の『テレサ』への出演を考えたが、ヘンリーが高校最後の年を迎えるため、モーテンセンは結局辞退した。父と子の仲は緊密で、「友達の関係」とこの俳優が呼ぶものを共有している。「とにかく息子と家にいる必要があるんだ」と彼は言う。

ヘンリーと一緒でない時は−彼は父親の映画に何作か出演しているが、『二つの塔』もその一つ−モーテンセンは、パーシヴァル・プレスの日々の仕事に戻るだろう。これは、彼自身も含め、どちらかというとあまり知られていないアーティストに発言の機会を与えるため、彼が2002年に設立した出版社である。彼はアイスランドの風景画家と共同で、最近撮影した抽象写真の写真展を考えている。さらに、年末の出版に間に合うように、詩と写真を集めた彼の新しい本も終えたいと思っている。また、バケットヘッドと一緒に、新しいレコーディングができればと考えている。彼は前衛ギタリストで、モーテンセンがこれまで6作のアルバムでコラボレートしている。(これらには、ヘンリーもベースギターの演奏で参加している。)

中つ国の熱狂以前は、モーテンセンの役者以外の活動はほとんど注目されなかった。今や、彼の本は重版を重ね、展覧会のオープニングは、愛するアラゴルンをひと目見ようとするファンですし詰め状態である。彼はこの現象をまったく気にしていない。「人々が見に来る理由なんて関係ない」と彼は言う。「中には、そういう状況を見て、“そうか、みんなは私を本気で扱ってはいないんだ” と言う人がいることも知っている。だけど、人々が実際そこにいることが重要なんだ。作品が好きでも嫌いでも。どこが違うんだい?(有名人だから人が集まるという理由なんて関係ない。)」 だから、こぶしで叩きながら、真のアーティストとして自分を尊敬しろなどと言うつもりはない?「哲学者バートランド・ラッセルの言葉で僕の好きな言葉がある。」 考え込むように目を細めて彼は言う。「“神経衰弱になりかけの症状の一つは、自分がしている仕事が非常に重要だと考えるようになることだ。”」 彼はそこで言葉を切り、手を叩きながら、突然大声を発して笑う。「完璧だよ!」

translated by estel