incontention.blogspot.com  2005.9.30 原文
メイキング・ヒストリー、パート3:ヴィゴ・モーテンセン

「アメリカ人は善良な国民だと僕は思う。だからといって、世界の他の人々と比べてすぐれているとか劣っているというのではない。起こったことへの我々の政府のお粗末な対応、やろうと思えば備えが可能だったかもしれないこと、あのハリケーンに対する事後の対応、今日そして明日また別のハリケーンが接近していること、こういったことにもかかわらず、政府が何をしたか、しなかったか、いかに政府が隠そうとしたか、言い訳しようとしたかは、実際には重要でなかったということを、僕は特に誇りに思っている。人々はやるべきことをやったし、今もそうし続けている。人々は本来立ち直る力を持っていると思う。そして、人々には本当に驚かされる。彼らが行うことのできる善と、示すことのできる思いやりには。そういう意味で、人間は他の動物と比べて特別だ。この映画のストーリーのように。論理的に考え、『ノー、それは正しい道ではない。困難かもしれないが、私はそのやり方と格闘していきたい』と言うことができる。また、人々は、正しいことだからという以外に特に理由もなく、自分が知りもしない人々に助けの手を差し伸べることもできる。そして、たった今、それが実際に起こっているのを目にすることができる。それはいつも我々に未来への希望を与えてくれる。」
--ヴィゴ・モーテンセン、ビバリー・ヒルズにて、2005年9月22日

 
俳優ヴィゴ・モーテンセンは多彩な芸術的感覚を持っている。

彼はストーリーを語ることに熱心である。役者の仕事だけでなく、文学や写真の分野での努力をも通して。マリア・ベロは、彼のことを、彼と彼のアートとは切り離せない、そんな人だと述べている。そして、この俳優とじかに話をしていると、文化的なものに対する物怖じしない鋭い感覚--自己表現の世界との調和--が認められる。

モーテンセンの映画初出演は、ピーター・ウイアー監督の1985年のスリラー『目撃者』だった。この作品には、皮肉にも、外部の力に対する自己防衛手段としての暴力と報復の哲学が描かれているシーンがある。20年後、彼はデイヴィッド・クローネンバーグの『ヒストリー・オブ・バイオレンス』にトム・ストール役で主演している。この男は、ある晩、人殺しとなったはずの2人組から、自分と自分の食堂と常連客を守り、劇的に緊張した状況の下で小さな町のヒーローとなる。どんな方法で?鬱積した暴力的攻撃の激しい炸裂で、悲惨と同時に全く手際がよい。そして、今年の社会分析の最も良い例の2つである、映画と演技の触媒の働きもしている。

これら多くの層を持つ役柄に取り組みながら、モーテンセンは、いくつかのレベルで自分にも理解することができ、その際、(ジョン・ワグナーのグラフィック小説に基づく)ジョッシュ・オルソンの脚本が観客に与える影響がどんなものかが理解できると感じた。

「我々は皆多重人格だと思う」と彼は明かす。「それは興味深くもあり、不安でもある。特に、クローネンバーグの目を通して見た場合には。礼儀正しさの下にあるものを容赦なく探ろうとするから。人間は複雑なものだと思う。そこがすばらしいところでもあり、怖いところでもある。誰でも何かを考え、何かを想像することができる。良いことも悪いことも。どんなに隔離された存在の人でも、どんなに若い人でも。すばらしくて崇高な気持ちを抱くことができると同時に、非常にダークで不安な考えを抱くこともできる。

「(クローネンバーグは)我々にそういうことを示すのを常に得意としている。車と同じだよ。見た目がとても素敵だから、開けてみる。中をのぞくと、もっとずっと複雑だ。そこで、エンジンの部品を分解してみる。すると、『これはめちゃめちゃだ』という感じになる。彼が人間を見る時には、まさにそういうことを見ているんだ。まるで科学者だ。コメディーの科学者だよ。こうした人間の行動の探求に真剣であると同時に、彼はまた健全なユーモアのセンスも持っていると思う。我々がいかに滑稽な存在であるかを示すだけでなく、彼はそれを楽しんでいるんだ。」

一つのキャラクター研究として、『ヒストリー〜』は、今年の大多数の映画作品より際立ってすぐれている。爽快であると同時に唖然とさせられる。人間性の残虐な層をひっぺがし、我々にまぶたを否応無しに見開かせ、我々の最も病んだ、最も深い所にある、最も恐ろしい素質を分析させる作品である。

この脚本をひと目見て、ほぼ傑作に近いものが行間に隠れているとは、すぐにはわからないであろう。先週、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』でジョナサン・ディーが指摘したように、「どうやらこれは、当然の評価よりももっと内容のある作品である。」 綱渡り状態は、モーテンセンの目にも即明らかだった。そして、脚本が真の芸術作品となるかどうか初めは懐疑的だったが、まもなく彼は、デイヴィッド・クローネンバーグと創造の喜びを共にしていることに気づいた。

「脚本を読んだ時はおもしろいと思ったよ。でも、大抵の監督はこれを大事にしないだろうと思った。つまり、生々しい描写や暴力や激しい感情という面で、視覚的にはおもしろいものを作るだろう。それは、すぐに満足を与えはするだろうが、ストーリーを語るという点では、必ずしも層の厚いものとはならないだろう。彼らには、忍耐力も、リアルな方法で脚本をシンプルにリアルに語ろうというガッツもないだろう。でも、脚本について、そして、僕が抱いていた疑問について何でも--『これはあまりにもみえみえだろうか?こうする必要はあるんだろうか?』とか--話そうと彼に会った瞬間、彼はすでに僕より先を行っていた。彼も同じ質問を自分に問いかけ、脚本を徐々に削ぎ落として引き締まったものにしようと考えていたんだ。

実際、脚本を作り上げるプロセスで、たったあれだけのストーリーに変容した。つまり、性格描写のあらゆる一コマ一コマから一滴残らず絞り取った、緊張感のある引き締まったスリラーになったのだ。

「撮影がスタートする頃までには、脚本は約100ページから70ページぐらいになっていた。だから、非常に無駄がなく、非常にシンプルな枠組みになった。誰もが初めから意図を把握していたよ。だから、枠組みの中で、僕たちはどこまでも探ることができたし、馬鹿なまねをしてみたり、リアルで間の悪い行動や状況をかなり真似たこともやってみた。(クローネンバーグは)人間の行動をよく研究している人だよ。」

この映画の実際の暴力については、この映画作家も俳優たちも、そのシーンの肉体面と心理面のどちらにも、極めて写実的なアプローチを取った。その結果は、この監督のポートフォリオで最もインパクトのある映画のシーンになっている。これは聞き捨てならないことである。

「非常にストレートで、信じられるものにすべきだ、という点で僕たちは合意していた。護身術の授業やテープを見たり、人々と話をしたりした。非常に事務的で、非常に直接的で、非常に効率的なものになっている。まさに映画全体のストーリー運びと同じように。カメラでできることや、ファイターの動きを見せびらかすようなシーンではない。無駄な努力もほとんどない。できるだけ素早くできるだけ人物に近づき、できるだけ素早くできるだけ多くのダメージを与えるということだ。基本的に、とてもシンプルなんだ。」

監督と仕事をする場合、デイヴィッド・クローネンバーグの優れた力量と非凡さは、このスターの目には無比の経験だった。どの質問でも、モーテンセンは、この映画作家に対する高まるばかりの賞賛と敬意を、さらにもう少し漏らさずにはいられないようだ。着実な導きの手で『ヒストリー〜』のストーリーを語るクローネンバーグの手法を、彼が高く評価しているのは全く明らかである。

「このストーリーを語る時、普通の監督がするよりも、はるかに長く続くシーンがたくさんある。エド・ハリスの後のシークエンス、つまり、彼と父子に何かが起こるシーンもそうだが、監督はそれを遊ばせて、遊ばせて、遊ばせて、それから、何が起こるかを見せる。他の監督なら、忍耐力もなければ、『う〜ん、観客がこれに辛抱してくれるかどうかわからないなぁ』なんて言う勇気もないだろう。そこが彼なんだ。楽しんでいるんだよ。それはリズムなんだ。彼はミュージシャンみたいだよ。彼は、自分がドラムのソロをかなり長く続けられることを知っているし、いつ次のパートに移って他のエレメントを導入すべきかも心得ている。

「我々はたった一つということは決してない。我々は皆すべてなんだ。それはただ、自分が何を見せたいか、あるいは、どんな状況のせいで見せざるを得ないのかによる。我々はあらゆる材料を持っている。我々みんなが。それはただ、状況、育ち方、ストレス、あらゆる種類のこと、それらの材料がどう結びついているか、人として自分をどう見せるか、という問題にすぎない。別の監督なら、もっとありきたりのことをしただろうし、こういう男が突然ああいう男になった、などと示しただろう。一人の俳優の演技という点では、表面的には派手なことかもしれないが、それだと、僕には考えることがあまり残らないだろうし、僕の人生に通じることもあまり残らないだろう。彼は偉大なアーティストだよ。」

役者としてストーリーを伝えることへの彼自身のアプローチについては、モーテンセンは、少ない方がなお良く、意志より行動の方が雄弁、ということに賛成らしい。

「僕は観客のことはあまり考えない。観客を尊敬していないからではない。それどころか、人々には知性があると考えることが、僕なりの観客の尊敬のし方だと思っている。何かを語る時は正直に語り、リアルな事を実際に感じたり考えたりしていれば、それは表に表れるだろう。そして、それをメッセージにしたり、わかりきったことのために見え透いたものにしようとしなければ、人々にはその方がありがたいだろう。」

映画は、物語のスコープ全体の要となる家族力学を提示している。アメリカ的出来事で、美しく、田舎町風に、登場人物の関係が崩壊していく様は、どんな特殊効果よりも目には魅力的だ。トムの妻エディを演じる、共演者マリア・ベロとモーテンセンとの相性は、正確な家族分析に、いわば背骨といえるものを提供する。彼のスクリーン上の相棒について、モーテンセンは最高の敬意を表して賞賛する。

「彼女について僕に言える最高のことは--そして本当に本当のことだが--彼女の役を他の人がやるのは全く想像できないということだ。また、できれば、絶対そうあって欲しくはない。彼女と一緒にこの仕事がやれて、とても満足しているから。彼女は本当によくやったと思う。度胸があるし、勇敢だし。感情面、肉体面で僕らがしなければならなかったことの中には、不快なこともあった。そして、それらはそのまま不快なものになり、彼女も無難に演じたりはしなかった。まさに一か八か思いきってやっていたよ。」

ベロと言えば、彼女は、カメラの後ろを動き回る[監督をする]ことへの興味を示していた。モーテンセンも同じなのだろうか?

「不可能ではないね。考えたことはあるよ。僕は写真家でもあるし。ものを書くのも好きだから、イメージや言葉でストーリーを語ることに興味はある。だから、関心のある様々な分野を用いて、一つのストーリーを語ることは論理的にはおかしくはないけど。わからないな。ストーリーが良くなければならないし。『ヒストリー〜』のように、またその撮影のように、どんなに準備ができていても、どんなにスムーズに事が運んでも、それでも大変な仕事で、確かに多くの忍耐力を必要とする、ということも僕は見てきた。企画に時間がかかるし、それにふさわしいキャスト、ふさわしい構成のクルーを集め、撮影し、その後、編集してプロモーションをするというのは、本当に一つのアートだよ。監督になるのは、特に、すぐれた監督になるのは、長くて辛い道のりだ。長く映画の仕事をしているからといって、僕にできるとは思わない。ものを書いたり写真を撮ることができ、物語を語ることが好きだからといって、僕にできるとは思わない。でも、可能性はあるよ。」

モーテンセンは、ミスター・クローネンバーグと共通した、結局かなり際立つ、ある独特な体の特徴を持っている。それは、冷静沈着な人であることを示す、突き刺すような青い目である。彼は計算してものを考える人で、頭の中は政治や哲学の解説でいっぱいである。しかし、『ヒストリー〜』の中に重要性と意味を読み込むという問題に関しては、彼は、この映画をそれが語るままに受け取ることに、より関心を持っているようだ。これは、公認されたり、カテゴリーに分類されるような映画ではない。とりわけ、ヴィゴ・モーテンセンの考えでは、『ヒストリー〜』は、何らかのアジェンダを誇る一つの映画制作というより、興味深いキャラクター分析として歓迎されるべきものである。

彼は、この映画がアメリカ自体の暴力の過去を示すという意見には、特別な、そしてかなりの反応を示す。

「これは複雑な映画だから、間違いなくそこに入り込むことができる。あらゆる種類の相似点を見つけることができる。そして、人々がこの映画に見ることの中には、僕もびっくりするようなものがある。証拠を挙げて説明できるから、それを僕自身で考えてみることさえある。それに、アメリカは、多くの国々と比べて、銃を持った大西部のような場所だと文書にも記録されている。でも、これは特にアメリカのこと--暴力あるいは暴力のもたらす結果--だけを描いているのではない。それに、みんなが極端に走り、これはアメリカの暴力についてだとか、アメリカの外交政策についてだとか、そうしたければ、挙げられるだけ挙げられるし、それだけの証拠を挙げて説明することもできる。この映画の意図はそんなことじゃない。この映画はそれよりもっとすばらしい。彼はもっとすばらしい監督だし、もっと頭がいい。この映画をそんな風に限定してしまうことはできない。できるかもしれないが、僕はそうしたくはない。

「過激になることも可能だ。いつもそんな風な書き方をする映画評論家がいて、彼らはすっかりその状態になってしまう。それも妥当だ。この映画について、実際に哲学の研究をすることもできる。でも、この映画を鑑賞するのに、そんなに熱心になったり、そんなに高く評価したり、学問的になろうとする必要はない。そこがこの映画のすごいところなんだ。これは、非常にすぐれた技と道具で作られた機械のようだ。この映画は。性能という点で、ほぼ完璧に近い。これがエンジンなら、音も働きもまさに完璧。ストーリーを語るという点では、効率の良さは最高だ。しかし、技術的に同じぐらいうまく作られた他の映画と違うのは、この映画には、広い心、しかも混乱した心がある。冷淡ではない。はっきり突き止められない映画だ、とは僕は思わない。トライしてごらん。でも、常に何か他のことが得られると思うよ。

「僕は、あらゆるやり方でこの映画について話してきた。記者の質問に刺激されるからということだけでなく、僕が人生や文学、政治、人々が何をするかしないかに興味があるからなんだ。本当だよ。それらは、ある意味、全て抽象的なことだ。ストーリーを語るのには役に立たない。僕が観客について考えるのが役に立たないのと同じように。僕はそうしない。僕は観客を尊敬しているからそうはしないし、クローネンバーグも同じだと思う。彼はメッセージを重視するタイプの監督ではない。彼は何かをクリエイトする。ドアを開ける。観客に自問させる。でも、こうしろとは言わないし、して欲しいと頼むことさえしないんだ。」

ほとんどの人々が知っているように、モーテンセンは行動主義一徹の人だ。実際、彼は奇妙にも、鼻の下の傷についての質問をうまくかわし、フォーシーズンズの自分の部屋のテレビをちらりと見る。

「あれを見て。針路を変えて、まっすぐニューオーリンズに向かってる。そうなると思ってたよ。」

もちろん、彼はハリケーン「リタ」のことを言っていた。このインタビューが行われた日、それはメキシコ湾岸沿いを襲いつつあった。このことで、ニューオーリンズの危機に対するジョージ・ブッシュの手ぬるい対応の結果について、訴訟を要求する彼の声明のことを持ち出してみようと思った。この時点で『ヒストリー〜』の話は全て終わり、私は幸せにも、この俳優と、政策に関する彼の意見、現政権に反対する彼の勇敢な姿勢、そして、他の何よりも誠実さに応えるシステムに対して彼が抱いている崇高な信頼について話すことができた。控えめに言っても、それは好奇心をそそる会話だった。また、この話題に関しては、彼は意見においても感情においても情熱的である。だが、それについては、後日またということで。

当面の問題に戻り、『ヒストリー〜』でのモーテンセンの演技は、間違いなく、現在までの彼の最高の出来である。それは、この俳優のために用意され、完璧に組み立てられた役柄である。そして、これまでの努力からすると、自分が演じた偶像を生身の人間の同志と考えるにとっては、それはいつものことであった。

「この役にしても、アラゴルン(『ロード・オブ・ザ・リング』)、カピタン・アラトリステ(『アラトリステ』)、あるいはどんな役を演じていても、僕はただストーリーの要求に従っているだけだ。そして、ディテールに関心があり、こぎれいで浅薄なものにはせず、内部にある全てのコントラストを見、一人一人の人物と一つ一つの関係に可能な限りの色を見ることに関心のある、できたら、そういう良い監督と良いキャストであればと願う。」

『ヒストリー〜』の制作に関わる全てが、その経験による影響を十分残して、去って行ってしまったようだ。モーテンセンも例外ではない。

「僕にとって、これは常に重要な出来事になると思う。僕はこの映画で、映画の演出として最高の方法を見ることができたと思うから。彼の準備のし方、スタートの前に全員とコミュニケーションを取る彼のやり方のおかげで、このストーリーを語ることがはるかに容易になった。そして、彼は常にコミュニケーションを欠かさず、最後までずっとオープンでいたという事実、このおかげで、非常に効率的な撮影になった。取り組むのに、とても楽しい映画作りだったよ。

「最終結果は、僕にとって、そして僕の好みでは、僕がこれまで関わったどの映画と比べても満足のいくものだ。もう一つの理由は、役者たちがこのプロジェクトで出した微妙なディテールを実際にありがたく思ってくれただけでなく、彼がそれらを探し、僕たちに探すよう励まし、僕たちの直感を信じるよう励ましてくれた、そういう監督と一緒に仕事をしたことだ。彼のように俳優たちを理解し、どうやって良い演技を引き出してやるべきかを理解している人がいるというのは稀なことだ。僕がこれまで出演したどの映画と比べても、この映画を、我々の共同作業を、僕は誇りに思う。」

translated by estel