WriteMovies.com  2005.5.17 原文
カンヌ、アメリカを咎める

ジョージ・ルーカスが『エピソードIII』に隠されたブッシュ批判を否定する一方、カンヌ出席の二人のフィルムメーカーが、アメリカの問題に真正面から取り組む

By J. Sperling Reich

アメリカ映画は、アメリカ文化を外側から追求した映画も含め、カンヌでは常に人気がある。だが今年、マーティン・スコッセシやクエンティン・タランティーノのようなアメリカ人監督の後を引き継いだのは、カナダのフルムメーカー、デイビッド・クローネンバーグとデンマークの映画作家ラース・フォン・トリアーのような監督たちである。

1996年『クラッシュ』で審査員特別賞を受賞、1999年には審査員長を務めたクローネンバーグが、今年は『ア・ヒストリー・オブ・バイオレンス』(以下『ヒストリー』)でコンペティションに戻って来て、これまでのところ前評判通りの健闘を見せている。プレスノートには、ヴィゴ・モーテンセンとマリア・ベロが中西部の小さな町に住む一家の夫婦役を演じるとしか書かれていないが、クローネンバーグは、ストーリーの露出は観客のサスペンスを損なうのではないかと案じている。

「思い出すのは、『クライング・ゲーム』でニール・ジョーダンが、プレスに秘密をバラさないでくれと頼み、プレスもそれを尊重したことだ」とクローネンバーグは回想する。「確実に言えるのは、ヴィゴが演じるトム・ストールがフィラデルフィアの二人のギャングからギャングに間違われるが、彼らはなかなか立ち去ろうとしない。しつこくつきまとうので、トムが自分の手でやめさせなければならなくなるということだ。」

クローネンバーグ作品にはどこかおなじみの、激しく生々しい暴力シーンが『ヒストリー』全編に点在する。「セックスと暴力は、僕の場合常にうまくいくんだ」と彼はジョークを言う。「ベーコン・エッグのようなものさ。それに、映画における暴力の歴史を見れば、長い歴史であることがわかるだろう。」

「暴力にはセックスの要素もあるし、いかなるセックスにも暴力の要素がある」とさらに彼は言う。「僕にとって、それを追求するのは自然なことなんだ。」

そうは言っても、暴力の扱い方は信頼できるものであるように心がけ、絶対にそれを美化したくはなかった、とクローネンバーグは主張する。「暴力の性質について、暴力が社会や家族、人間生活、人間の体に与えるインパクトについて、真剣に論じた作品なんだ」と説明する。

エド・ハリスとウィリアム・ハートも出演する、この『ヒストリー』が描くセックスと暴力には、まじめで滑稽なシーンが数々登場する。「滑稽であると同時にシリアスでもあると思う」とクローネンバーグは言葉を続ける。「シリアスなコメディと言えると思う。そう、この映画はかなり笑える。それはまちがいない。いくつかのシーンでは、シリアスな面と、非常にシリアスで感情的な面と、滑稽な面との間に、リアルな緊張が生じるんだ。」

『ヒストリー』は、ここ何年かのクローネンバーグ作品の中では、おそらく最も主流に近い作品であろう。それでも、この62歳のトロント生まれの監督は、作品を楽しむためには観客にも少し「苦労」してもらおうと企んだ。こういった特徴が、このプロジェクトに引き付けられた理由である、とモーテンセンは言う。

「ほとんどのフィルムメーカーが一番いやがることは、役者が自分で考えることなんだ」とその俳優は語る。前回彼がカンヌを訪れたのは、2001年の『ロード・オブ・ザ・リング』の時である。「政治家やフィルムメーカーは、君はこう考えたまえ、と言う方が簡単なのさ。でも、自分で考えさせてもらったほうが、さらに得るものが大きいんだ。」

クローネンバーグはこの新作をカナダで撮影したが、アイディアとしては、一つの完璧なアメリカ中西部の雰囲気を作り出すことだった。「この映画の詳細な部分はアメリカ的だが、暴力の解釈は極めて普遍的なものだ」と監督は語る。「どの国も暴力の歴史を持つ。どの国も暴力の上に国が築かれている。どの国も、自分たちが勝手に決めた権利を行使して、他の国々に対し、また自国の民に対してさえ、暴力行為をはたらく。そうではないと主張できる国は一つとして存在しない。」

(以下、他の映画に関する部分は省略。)

translated by estel