theage.com.au  2006.2.24 原文
ヴィゴ効果

『ロード・オブ・ザ・リング』のアラゴルン役は、息子が説得しなければならなかった。デイヴィッド・クローネンバーグの最新作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』を引受ける決心をした理由を、ヴィゴ・モーテンセンがステファニー・バンベリーに語る。

数年前、『ロード〜』の二作目が公開された年の夏、一人の女性が、その晩の予定を携帯電話で話しながら、コリンズ・ストリートを歩いていた。はっきりとは聞こえないが、何やら映画館と上映時間のことのようだった。少し間をおいて、彼女の声が普通の声から断然甲高い声に変わるのが、はっきりとわかった。

「そう、これにも出ているの、彼」と彼女が言う。再び間をおく。「そう、馬に乗って。」クスクス笑う彼女。話がまとまる。少女たちは映画館に向かった。

これがヴィゴ・モーテンセン効果の働きだ。アラゴルンとして、完璧なまでに端正な顔立ちのモーテンセンは、おとぎ話のロマンチックなヒーローであり、勇敢だがどこかこの世のものとは思えない、チョーサーの「完璧で立派な騎士」 [訳注:14世紀イギリスの詩人チョーサーの『カンタベリー物語・プロローグ』より] のようでもあり、ロックスターのようでもあった。

馬に乗ったヴィゴという動機がなければ、一定年齢の女性があれほど大勢、戦闘シーンだらけの長ったらしいファンタジー映画を3本も観に行っただろうか?ほら、よく考えてみて。

実は、モーテンセンが、撮影開始後に『ロード〜』から抜けたスチュアート・タウンゼントの間際のピンチヒッターだったことは、今では信じられないことのように思われる。しかも、その急な連絡が入った時、彼は、初めはその役を断った。ニュージーランドに行けば、息子(現在18歳)と何ヶ月も連続で離れることになるという理由からだった。

これこそパパのやるべき役、と彼に勧めたのは、大のトールキンファンである幼いヘンリー・モーテンセンだった。そして、もちろん、この少年は全く正しかった。

それでも、ヴィゴは未だにどの監督にとっても難物である。デイヴィッド・クローネンバーグは、ヴィゴが『ヒストリー〜』の仕事を引受けるまでに、何ラウンドか説得をかさねなければならなかった。この映画は、それまで穏やかで善良だったカフェのオーナーが、脅されて、突然冷酷に、カウンターごしに二人の凶悪犯を殺す気になる、という非常におもしろい物語である。

いや、実際、見事な射撃の腕前と運動神経とすばやい反射神経で彼らを殺してしまうのである。トムとは本当は何者なのか?ミルクセーキの機械の操作では、そんな技は得られない。

だが、トムのアイデンティティーは重要なポイントではないのだろう。お見事なのは、誰も彼の話の断片がかみ合わないと考えたがらないことだ。フツーの男が反撃し、地元のヒーロー、やがては国中のヒーローとなったのである。

だが家庭では、ささいな食い違いがいたる所に見られる。マリア・ベロ扮する妻エディにとって、それはまるでマトリョーシカのようなものだ。つまり、彼女を愛し、子供たちの父親であり、この家庭を築き上げたトム・ストールの中に、明らかに別の誰かが隠れている。

クローネンバーグの手により、ジョン・ワグナーとヴィンス・ロックによる同名のグラフィックホラー小説をもとにしたストーリーは、人間の心の闇についての印象深い寓話となる。

この点こそ、彼がわざわざ飛行機で行ってモーテンセンを食事に誘い、この映画の意味について「つまんだ」時に、モーテンセンに約束したことだった。「どんな『つま』かって?ジョージ・ブッシュだよ」とクローネンバーグは言う。二人はアメリカの外交政策について話し合った。

「ヴィゴは、自分が出演する映画にはうるさいんだ」と彼は言う。「一つは、映画の根底にある政治的要素について話し合うことだった。彼は、私が政治的要素を意識しているか、それらを重視しているか、映画を終えてもそれらが残るだろうかとか、いろいろ知りたがった。」

クローネンバーグは、2003年にこの企画に参加した。脚本の初稿はすでにあったが、原作となった小説にかなり近いものだった、とモーテンセンは言う。

彼はそれが気に入らなかった。宣伝になる残酷なホラー映画だけは作りたくなかった。彼には最初そんな風にみえた。どんな映画でも、その善し悪しに関わらず、大変な努力が必要とされる。だから、できるなら、あくまでいい映画を求める方がましだ。しかも、中つ国の賜物のおかげで、最近の彼にはそれができる。

モーテンセンは言う。「僕には、99%の監督がつまらない映画にしてしまうような脚本に思えた。でも、この場合はデイヴィッド・クローネンバーグだからね。『へぇ〜』って思ったんだ。」

カナダのグロテスクの巨匠、デイヴィッド・クローネンバーグは、SFを通して(ザ・フライ、イグジステンズ、デッドゾーン)、狂気の物語(スパイダー)、セクシュアリティー(戦慄の絆、クラッシュ)、あるいは創作過程そのものを通して(裸のランチ)、人間性を探究する一連の作品を残している。

失敗作もあるが、並み以下の監督でないことは確かである。モーテンセンは、喜んで説得に応じた。「それで、彼にちょっと聞いてみようと思ったんだ。なぜこの映画を作ろうとしているのか、って」と彼は言う。

「出だしをどうしようと考えているのか、彼の意図は何なのか知りたかったんだ。きっといい答えが得られるだろうと思って。そして、実際その通りになったよ。映画がどんなものになるかについて、僕たちの波長はぴったりだとすぐに感じたんだ。」

モーテンセンは活発な話し方をする人ではない。アラゴルンの声に聞く彼方の風のようなため息が、普段でも聞かれる。しかし、彼は今、朗々としてクローネンバーグについて語っている。

「デイヴィッドについて肝心なことは、彼は全てを説明するという安易な解決策を絶対に取らないことだ」と彼は言う。

「彼は意見を押しつけたりしないんだ。物事をこう見るべきだ、なんて強要しない。実際、彼のほとんどの作品は、この映画と同じような出だしで始まっている。『何が起っているんだ?何も起こってないじゃないか。これはひどい映画か?いや、デイヴィッド・クローネンバーグだもの。大丈夫にちがいない』って感じになる。そして、数分たつと、こういう疑問は忘れてしまう。映画に入り込んでしまうから。自分がそこにいるから。すると、突然、不快感に襲われるんだ。」

不快感がモーテンセンにとって重要であることは、すぐに判明する。彼は、アウトドアスポーツを通して、肉体的不快感を求めるのだ。『ロード〜』では、セットで「どうにか」つま先を骨折したが、一方で、サーフィンをしていて顔にひどいあざを作り、ピーター・ジャクソンがあざのある側を避けて撮影しなければならなかった。

一方、感情的あるいは知的不快感は、心を鋭くする。

彼はこう続ける。「クローネンバーグは、答えを全く与えずに疑問を引き起こすことによっても、観客に不快な感覚を与える。」

「それはまるで、彼がドアを開けて人を部屋の中に押し込む代わりに、ドアを開けたら自分がまず入り、それを見た人が、『彼はそこで一体何をしているんだろう?』と言うようなものだと思う。彼は、観客に自分で考えるよう促す。それはすばらしいことだ。それに最近は、映画製作者でも作家でも、あるいは政治家は間違いなくそうだが、人々に自分で考えるよう促すことはあまりしない。実際、彼らは人々にそうして欲しくないと思っている。だってその方が、彼らの好きなものを何でも人々に売ることができるから。でも、デイヴィッドはそんなことはしない。」

それで、ジョージ・ブッシュと国政についての熱心な議論となったわけである。当然のように、この映画は、切迫して一見解決不可能なアメリカの銃規制法の議論に加えられてしまった。カナダ人によって作られた点が特に共通する『ボウリング・フォー・コロンバイン』に似た映画として。しかし、クローネンバーグもモーテンセンも、もっと広い意味の政治的な映画とみている。

モーテンセンとしては、『ヒストリー〜』において、 映画の核心にある対峙の重要な場面は、より一層拡大して考えられる。トムの極端な自己防衛の場面が提示する権力と責任についての同様の問題は、アメリカの外交政策にもあてはまる。

しかしこれらは、場所に関係なく、人々の心に触れる問題である。『ヒストリー〜』は、スウェーデンの小さな町という設定で、イングマール・ベルイマンが監督してもおかしくはない、と彼は言う。

「自分の食堂で人を殺した人間が、なぜ町の人々によって称賛されるのだろう?」とモーテンセンは問いかける。

「これは特にアメリカに限った問題ではない。人間の行動の問題なんだ。これらの人々の最初の反応は、『よし、いいぞ、彼はあの悪い奴らを殺した』と述べることだ。 ある意味これは、自分自身に対する権限を放棄するようなものだ。これを社会全体で考えてみると、『ほう、君の決断は素早かったね。よろしい、僕の代わりに考えてもらおうか』 と言うようなものだ。拡大解釈をしたければね。

「こんなふうにして、ある人々は、国または運動のリーダーになる。なぜ私はこの人に投票したのだろう?なぜ国は戦争に向かうのだろう?なぜ国はファシストによる独裁制になるのだろう?ドイツなりアメリカなりスペインの人々が、他の国の人々よりすぐれているとか劣っているからではない。こういう事は起こるものなんだ。人々がそうするんだ。誰かが力ずくの行動をとるのを見て、人々は『その通り!』と同調する。自分で考えるより楽だからね。」

我々は皆、服従する意志を共通に持っている、と彼は言う。「これはアメリカについての映画ではない」とモーテンセン。「暴力についてでさえない。これは、この権力という問題を扱ったラブストーリーなんだ。」

昨年カンヌでこの映画が上映された時、クローネンバーグが王道路線に一気に転換したことを示す作品、と一般にうわさされた。つまり、『ヒストリー〜』は、予想外の展開と共感を誘う登場人物により、気味の悪い腫瘍も切断された内臓も観客を混乱させる想像上の昆虫も出て来ない、ごくありふれた語り口を持つ作品だと。

クローネンバーグは、そうはみていない。彼の最も主流の作品は『デッドゾーン』だと彼は言う。スティーヴン・キングの小説を下敷きに、小さな町の生活を描いたよくあるストーリーで、保安官さえ登場する。

「だから、僕は特に『今回は王道路線でいこう』とか『独立系でいこう』などとは考えない。その企画ごとにやり方が違うんだ」とクローネンバーグは言う。「批評家がトレンドや傾向に当てはめたがるのはわかる。だが、内部の者から言わせると、それは見当違いだし、どれも大して重要ではない。」

クローネンバーグが"Wonderful Life" [訳注『素晴らしき哉、人生!』(It's a Wonderful Life, 1946)のことか?] の分野を引受けると、きまって、異例なほど調子が狂って見えるのもまた本当である。全てのものが、絵はがきから切り取ったように、あまりにもカラフルに誇張されている。ハワード・ショアの音楽は、不安にかられるほど親しみやすく、我々が昔見たことのある映画--おそらく1950年代の西部劇--の夢想バージョンのようである。

それでも、エド・ハリスの悪漢と、ウィリアム・ハート扮する、トムの一風変わった兄には、 切れのいい独創性が見られる。

実際、最後に多くの後味の悪さを残すのは、主流に対するクローネンバーグの「ゆがみ」である。

「僕は、いわゆるごく普通の、いや、ほぼ理想の家族の話に非常に興味があった」とクローネンバーグ。「そして、それを異常な方向にスライドさせていくとどうなるかをみることに。そこには、明らかに暴力の議論だけでなく、セクシュアリティー、結婚、家族、アイデンティティーもさらけ出されるからだ。」

モーテンセンは、クローネンバーグについて、特に強い感情を込めて語る。『ヒストリー〜』の製作が、他の何ものにも劣らぬほど知的な仕事だったことは明らかである。しかし、もし好きなようにしてよいなら、アラゴルンで顔が知れ渡った後に、また映画を作りはしなかっただろう、とモーテンセンは言う。名声は彼には合わないのだ。

いかにもうんざりしたように彼は言う。「そんなこと考えもせずに22年間働いてきた後で、突然状況が変わっているんだ。道を歩いていると、人々が写真を撮りたがる。甥のため妹のためとかで。以前はそういうことに対処する必要なんか全くなかったのに、今は違う。変なものだよ。うれしく思う一方、パブに入って一杯やれたらと思うよ。」

今は家にいることが多いと彼は言う。見ず知らずの人々に、自分のことを説明する必要を避ける、それだけのために。

「いつも皆同じことをとっても丁寧に言うんだ。『おじゃましてすみません。親しいお友達とご一緒だということは承知の上です、が、それでもとにかくおじゃまします。』それを30分もやって、あとは帰っていく。頭に来る時もあるけど、一番いいのは、こっちが立ち去ることさ。」

彼は、前向きに考えようとしていないわけではない。ファンはこの仕事とある程度関係があるから集まってくる、と彼は言う。「立ち止まって考えてみれば、これはいいことなのかもしれない。でも、僕は21歳じゃないし、数年もすれば、こういう状況も多分終わるだろう。」

一方では、プラスの面もある。演技はモーテンセンの多才な面の一つにすぎない。名前が知られるずっと以前、ウェイターや波止場の仕事をしたり、ニューヨークの通りで花を売っていた頃、"Ten Last Night"という詩集を出版している。

今でもものを書くほか、写真や絵画の作品展を行ったり、ジャズバンドで演奏したりしている。そのバンドは3枚のCDを出しているし、彼は画家としても定評がある。事実、『ダイヤルM』で彼が演じた人物が描いた絵は、全て彼自身の手によるものである。

このことは、彼の小規模な出版社、パーシヴァルにとって、かなりの後押しとなっている。彼の本の売り上げが、無名の若い作家の出版の資金調達を助けているからである。名声は出版社とは全く無関係だが、役には立っている。

ヴィゴ・モーテンセンは今年48歳になる。彼が初めて名を上げたあの小さな役、ピーター・ウィアー監督の『目撃者』(1984)での若いアーミッシュの農夫の役から、長い長い道のりだった。それ以来、しばしば「往く人の少ない路」を歩んできた彼は、彼が選んだ役によって、多くの尊敬を得てきた。

彼は、ショーン・ペンの『インディアン・ランナー』、ブライアン・デ・パルマの『カリートの道』、ジェーン・カンピオンの『ある貴婦人の肖像 』のような多様な作品に出演している。アグスティン・ディアス・ヤネスの監督で、スペインで制作された彼の最新作『アラトリステ』は、スペイン帝国の黄金時代を扱ったものである。モーテンセンは、12歳までアルゼンチンに住んでいたので、スペイン語は英語やデンマーク語と同じくらい流暢に話す。

ヴィゴ・モーテンセン効果は、明らかに、さまざまな文化にわたっている。

暴力の問題にもどる。『ヒストリー〜』は、あらゆる人間の内部に渦巻く暗闇を示唆しているのかもしれない。しかし、モーテンセンは、より寛容な見方をする。

「暴力はある程度避けられないものだ。全ての人の中にというわけではないだろうが、人間のいる所、大抵の動物のいる所に、暴力は多少は存在する。人間として、我々は自由意志を持っている。自分で考えることができる。権力を問うこともできる。自分の中にある、一般に受け入れられた概念や習熟した行動を問うこともできる。我々にはそれができる。多くの場合、暴力に対してノーと言うことができる。そして僕には、それこそが、この物語の中で起こっていることだと思える。そしてそれこそが、僕にはおもしろいと思えるんだ。」

結局、彼にはあれだけの説得は全く必要なかったのかもしれない。

translated by estel