Cannes: Press conference  2005.5.16

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司会: 私の記憶にある限り、これはあなたの作品の中で最もアクションを重視した映画だと思うのですが。あなたは寝ている間に男をハエに変えたりしましたが、今回のように、荒っぽくてダイレクトで、そいつの首をへし折れ!といったタイプのアクションは初めて見た気がします。違いますか?

クローネンバーグ: そう。ある意味では君の言う通りだ。でも、たとえば『クラッシュ』や初期の『スキャナーズ』のような作品にもアクションはふんだんに出てきたはずだよ。

(以上、他の動画から省略部分を補いました。)

クローネンバーグ: 全く新しい領域に踏み込んだとは全然思っていないね。つまり、どんなに似ているところがあっても、映画はどれも未知の領域だと言える。そういう意味では、僕はこの作品で新しいことを行った。だが、肝心なのはもっと微妙な点なんだ。もちろん、殺人や争いなどの題材はこれまでも数多く扱ってきたが、この映画が今までと違うのはトーンなんだ。感覚的なものだよ。恐くてびくびくしていたわけじゃない。(司会: 別にそうでなきゃいけないと言ったわけじゃありません。)わかってる、わかってるよ。いや、僕だって恐くて震えることはあるよ。

最初からはっきりしていたのは、これは非常にアメリカ的な話だということ。楽園のような完璧なアメリカ中部の小さな町が舞台になっている。もちろん、そうであれば撮影にはカナダがうってつけだと思った。実際そうだったけどね。(笑)確かにこの映画は西部劇に似たところがある。銃を持った奴らから家族と家を守るために、一人の男が銃を取って立ち上がるという話はその典型だ。非常にアメリカ的で西部劇のような話なんだ。だから、そういう要素を全て取り入れた。この映画の核だからね。それを深く掘り下げてみたかった。そういう意味では非常にアメリカ的なトーンを持っているが、アーティストなら皆言うだろうが、普遍的であるためには、まず具体的でなければならない。この映画では、具体的にはアメリカを描いているが、暴力の解釈は極めて普遍的だと思っている。

ウィリアム・ハート: 例えばアメリカの歴史で言うと、最も悲惨なのは南北戦争だ。我々は他の国の人々を合わせたよりも多くのアメリカ人を殺した。離散家族の国になってしまった。だが、そういう家族は今でも至る所に多くいる。で、デイビッドの寛大さとヴィゴの寛大さのおかげで、出演時間はとても短いが、僕の役がとても重要なものになった。それにデイビッドは、役者にはその役を演じる権利があると信じて役を与えてくれる。これは他では滅多にないことだ。だからヴィゴも、僕と一緒に役をふくらませる時間があった。とても忙しい身なのに。・・・ デイビッドの言うことは全くその通りで、普遍的な解釈をするためには、極めて詳細でなければならない。細部を描くことによって、他人の内部に入り込む。だから僕は事前にたっぷり時間をかけることができた。それに、デイビッドはとても敬意を払ってくれるんだ。

ヴィゴ・モーテンセン: みんながそうだった。たとえば、デイビッドは、これはチームワークで、みんなが参加するのが当然だと考えている。彼にはそれが普通のことなのかもしれないが、少なくとも僕の経験では、こういう監督と仕事をするのは稀だ。人間がしっかりできていて、ちゃんと準備ができていて、自分のヴィジョンをちゃんと持っている。それが、ある日現場ではこう言う。「君の持っているものを見てみよう。もっと色をくれないか。そうしたら僕が絵を仕上げよう。」それがみんなにも伝わった。たとえば、アシュトンが家族についての自分の意見を述べると、今度はマリアがというように、みんなが自分のアイディアを出し合った。フィラデルフィアについては、そこの出身のマリアがみんなを助けてくれた。ジョッシュからも意見が出た。つまり、みんなが関わって、家族の団結みたいなものだった。

マリア・ベロ: 私は監督を良い父親みたいだと思ってるの。いつも喜ばせてあげたくなるような。私たちを好きなだけ遠くに行かせてくれるけれど、いつも急いで帰っていきたくなるような、そんな父親。監督はクリエイティブな面で自由にやらせてくれたけど、結局は、私たちはいつも彼のビジョンに戻っていくの。だけど、あのワンシーンだけは別よ。

クローネンバーグ: つまり僕が君の父親ほどの年だということかな。それはショックだな。君はどうかわからないが。(笑)

translated by estel