Q: ちょっと話題を変えよう。『王の帰還』のプレスジャンケット(色々なメディアが代わる代わる行う取材)が始まるけど、心の準備はできてる?
できてないよ!クリスマスまでの、うんざりするほど長い間、世界中を駆け回るんだよ。もちろん、大好きな仲間たちと作った、大好きな作品のプロモーションだから、そういう意味ではモチベーションを保ちやすい。スケジュールだけを見たら、“大丈夫かよ”って思うけど。
Q: ピーター・ジャクソンは、もっと評価されてもいいと思うんだよ。こんな大仕事をやってのけたんだから。もし、これがスタンリー・キューブリックやスティーブン・スピルバーグの仕事だったら、評判にしても、宣伝にしても、もっと大騒ぎになるんだろうな。だって、3本の大作を一度に撮影して、素晴らしい延長版のDVDまで作ったんだから。トールキンの精神や、膨大な数のトールキン・ファンを裏切らずにね。
ほんとに、これ以上ないくらいだよね。あからさまに賞狙いでプロモーションに動くような人たちもいるけど、ピーターはそんなタイプじゃない。もちろん、彼も僕らも、プロモーションはするよ。契約に含まれているからってだけじゃなくて、大事なのは、“楽しんで” プロモーションしてるってことなんだ。彼は、なりふり構わずオスカーを欲しがったりはしない。オスカーを獲りたいがために、その仕事を選ぶなんていう人もいるけど、それって、寂しいことだと思うな。決して、そういう人たちがアーティストとして劣っているとか、いい仕事ができないって言っているわけじゃないんだよ。でも、賞を獲ることがゴールだと考えている人は、真の満足感を得られないんじゃないかと思うんだ。チームワークや唯一無二の瞬間に居合わせたこと、映画製作のプロセスを楽しむこと。そういったことから得られる満足感を逃してしまう危険がある。仕事に全力を注いでいないとね。
ピーターは、賞自体を否定しているわけじゃないと思うよ。でも彼は、いい映画を作ること、いいストーリーを表現することに比べたら、そんなことは本当にどうでもいいと思っているんだ。彼はオスカーを獲れないかもしれないな。なぜって、そのために必要な数の、もしくは効果的な奴らのケツにキスはしないだろうから。ま、結果はわからないけどね。
Q: アラゴルンについては、どう思う?トールキンは、かなりこのキャラクターに入れ込んでいるようだけど。弱者を守る野武士として登場して、その後、正体が明らかになるわけだよね。シェイクスピアのヘンリー5世のように、やがて王となる男が身を隠し、世界をもう一度ひとつにまとめるための準備を整えていく。
彼はリーダーにふさわしい男だよね。異なる文化に興味を持ち、ミドル・アースのあらゆる場所を旅しているっていう部分では。求めているものは、いつも他の人々と同じなんだ。情に流されやすいところがあって、慈悲深い。そういう教えを受けながら育てられたからね。彼は、偉大な先祖たちが絶対的な地位についていたことを知っている。それと同時に、先祖たちが最終的に弱さを露呈して、“指輪” に寄せる関心と強い欲望とで混乱していったことも。
彼らは“ひとつの指輪”の誘惑に負けてしまう。葬り去る代わりに、それを使って世界を意のままにしたいという欲望に取り憑かれてしまうんだ。そんなことは絶対に不可能だし、リーダーとしての本当の潜在的能力が高まるわけでもないのに。アラゴルンは一貫して、彼自身が抱いている疑念と向き合ってきた。「なぜ自分が、気高い祖先たちよりも、事をうまく運ばなければならないのか」、「なぜ自分が、この難しい情勢の中で、手本となって人々を導かなければならないのか」って。それまでの人生のほとんどの間、— 彼の場合、普通の人間よりも寿命が長いから、その時点で80年ほどの間ということになるんだけど — 身を隠し、名前や出生、話す言葉まで変えて生きてきていたら、すっかりそういう習性が身についちゃうよね。
子供の頃を別にして、彼はずっと本当の姿を見せずにきたんだ。公の場でも、プライベートの場でさえ。どんなふうに、折り合いをつけてきたんだろう?どんなものであれ、ある習慣を身につけていれば、それを変えることへの反発心や恐れがわいてくるものだよね。あまり気分のいいものじゃない。突然クローゼットから飛び出して、「これが本当の僕なんだ!」って宣言する — もう隠れて行動しないし、“孤独な放浪者”にも戻らない。ありのままの姿でひとつところに留まり、他人との交流も拒まない — それって、ある意味では、軍隊と戦うよりも恐ろしいことだよ。こういった心の中の葛藤を演技で表現するっていうのは、とても興味深いことなんだ。脚本や原作に、文章として書かれているわけじゃないし、書かれていたとしても、それがすべてじゃないからね。
『旅の仲間』と『二つの塔』を見た映画ファンの人たちは、たぶん多くを説明しなくても、アラゴルンの人物像について、何かを感じ取ってくれたと思う。俳優である僕にしてみれば、こうした疑念を抱いて、もがいているキャラクターを演じることは、滅多にない特別なことだったんだ。たぶん、人はみんな、これと似たような問題や責任に直面していく。心の準備ができていようと、いまいとね。実際の人生でも、お芝居の世界でも、こんなふうに問いかけてみると面白い。「さあ、どうやってこの困難を乗り切る?自分はどんな反応を見せるんだ?」
Q: どうやって世界中に広がる文化の一端を担っていくかっていうのも、ある意味、面白い問いかけじゃないかな。トールキンが、いまだに現代社会に通じる意義を持っていると思われている理由のひとつは、いくら公益のためだとは言え、異なる文化を完全にひとつにまとめようとすることが、いかに危険で難しいかを、他の何よりもまず伝えようとしているからってことなんだ。
その通りだね。この映画の成功は、そういった複雑な状況を際立たせることになると思う。映画の世界には、自分が正当に評価されていないと感じている人もいるって、前に話したよね。僕はね、それってちょっと危ないなと思うんだよ。落とし穴があるんだ。つまりさ、どれだけ賞賛されれば気がすむのかってことだよ。人の欲望にはきりがないんだ。「これくらいの金額はもらって当然だ」とか、「俺のおかげでどれだけ儲けたか、もっとよく考えろ」とかね。理想論かもしれないけど、最初にその仕事を選んだ理由は、そんなことじゃなかったはずなんだ。望んでいたのは、公正に扱われることだろ。でも、それは保証されていることじゃないんだ。そうなることもあるし、ならないこともある。そういう部分で、戦いが必要な場合はあるね。
例えば何かの賞レースみたいな人気投票の場面で、自分が個人的に特別な注目を集めなかったからといって、「やってられねーよ」なんていう気持ちになる人は、公益団体で働いても満足を得られない人たちと同類だね。結局、自分でコントロールできるのは、自分がどういう態度を取るかってことと、誠実に努力をするってことなんだよ。これは、面白いことに『ロード・オブ・ザ・リング』の登場人物たちの、それぞれの旅と似ているんだ。
Q: みんなが“指輪”をはめて他人のことは忘れてしまいたいっていう誘惑にかられるんだね。
映画業界には、残念ながら、こういうことがあふれているんだ。どんなに多くの賞賛を受けて、多くの金を稼ぎ出しても、ただ自分のためだけに、もっと多くを欲しがる人たちがいる。仲間と分かち合おうとか、その仕事を特別なものだと受け止めて結果は期待しないなんていう気持ちは、これっぽっちもない。一度成功すると、さらに大きなものが欲しくなるんだよ。「なんて素晴らしいんだ。この仕事ができて幸せだよ。こんなことは二度とないかもしれない」なんて言わないんだ。成功に飢えているんだね。幸い、そういう道をたどる人は、そんなに多くないと思うよ。少なくとも、ずっとそういう状態にいる人はね。誰もが時を追うごとに、その経験がいかに特別かってことに気づくんだ。物語の一員になるっていう経験が、何も代えがたい喜びだってことに。